集団的軽躁状態について 性と暴力


集団的軽躁状態について

1.問題設定――「集団はなぜ軽躁化するのか」

通常、集団全体が恒常的に軽躁状態にあることはほとんどない。
しかし、特定の条件が重なると、集団全体が一斉に軽躁的な情動水準へと引き上げられる(知的・感情的レベルとしては「引き下げられる」と表現したほうがよいが、ここでは「気分が上がる」といった一般的な意味で、引き上げられると表現する。)ことがある。この現象は、個人の精神病理を単純に拡大したものではなく、集団という単位がもつ独自の防衛反応として理解されるべきである。

2.誘因――危機状況としての環境圧

集団的軽躁状態は、多くの場合、集団が危機的状況に置かれたときに生じる。

  • 飢餓や資源不足
  • 周辺集団からの攻撃や対立
  • 感染症や災厄の流行

これらはいずれも、集団の存続そのものを脅かす状況である。
こうした局面では、慎重で抑制的な情動様式よりも、即時的で楽観的、かつ行動を促進する情動様式が選択されやすくなる。集団的興奮に至る。

そしてその場合、その状態は集団統治に有利なものになる。

外敵を立てることで、内部の敵を抑制することができる。そのような利得もある。リーダーに盲目的に依存するようになる。

3.機制①――軽躁的防衛と感情感染

軽躁状態にある人は、危機に対して「否認・万能感・過剰な楽観」を含む軽躁的防衛を用いる。
この防衛様式は、以下の点で集団内に感染しやすい。

  • 不安や恐怖を一時的に消去する
  • 判断を単純化し、行動を即決させる
  • 「大丈夫だ」「何とかなる」という感覚を共有させる

その結果、集団内に元々一定割合で存在していた軽躁傾向の人々が情動の媒介者となり、集団全体の情動水準が引き上げられていく。

4.機制②――妄想的意味付与の動員

同時に、この局面では妄想症圏の人々が重要な役割を果たす。

  • 神のお告げ
  • 先祖や霊の啓示
  • 運命的使命や選ばれた者意識

これらは病理的内容を含みつつも、集団にとっては意味付与装置として機能する。
「なぜ今この苦境にあるのか」「何をすべきか」という問いに、即時的で一貫した答えを与えるからである。

5.現象――単純化・興奮・脱抑制

集団的軽躁状態では、知性も感情も複雑さを失い、単純化する。

  • 善悪の二分化
  • 仲間と敵の明確化
  • 今ここでの快と興奮の優位

この状態で顕著になる行動が、性交渉と喧嘩である。

  • 祭りや集会、酒の場での性的脱抑制
  • 集団で他集団に挑む攻撃性
  • 命を賭しても構わないという感覚

人が密集するコンサートや集会で、思わず感動し、昂揚してしまう現象も、軽躁的集団興奮の穏やかな形といえる。

6.機能――なぜそれが残ったのか 性と攻撃性

重要なのは、これらの行動が集団にとって一定の利得をもつことである。

  • 妊娠:次世代の確保、性欲の消費
  • 喧嘩・闘争:集団境界の明確化と結束強化、攻撃性の消費
  • 集団内序列の明確化

個人レベルでは破壊的であっても、集団進化的には存続に寄与する側面がある。そのため、集団的軽躁状態は文化や時代を超えて反復されてきた。

7.中間まとめ――集団的軽躁状態とは何か

集団的軽躁状態とは、
危機に直面した集団が、存続のために選択する一時的な情動戦略である。

それは理性的でも成熟した状態でもない。
むしろ、単純化・興奮・脱抑制という代償を伴う。

しかし同時に、それは人類が危機を越えてきた際に繰り返し動員してきた、
きわめて古い集団的防衛様式でもある。



8.現代社会への接続――政治・宗教・ナショナリズム

8-1.政治――「希望」という軽躁的資源

現代政治において、集団的軽躁状態は「希望」「変革」「取り戻す」といった言語を媒介に出現する。

  • 複雑な制度問題は単純な敵像へと還元される
  • 「我々さえ団結すれば何とかなる」という万能感
  • 専門知や熟議への軽視

ここで重要なのは、これは単なる大衆の未熟さではなく、社会が危機にあるときに動員されやすい情動様式だという点である。経済停滞、人口減少、安全保障不安などが重なると、政治は冷静な調整装置であることをやめ、集団的軽躁を誘発する装置へと変質する。

8-2.宗教――妄想的意味付与の制度化

宗教は、集団的軽躁状態を安定的に再生産する制度である。

  • 神意・啓示・選民意識
  • 苦難の意味づけ
  • 敵対者の道徳的劣位化

これらは妄想症的構造を含むが、個人病理として切り捨てられるものではない。むしろ、宗教はそれを儀礼・教義・物語として集団的に管理してきた。

言い換えれば、宗教は「制御された集団的軽躁状態」を社会に許容してきた装置であり、世俗化が進む現代では、その代替として政治的イデオロギーや陰謀論が同じ機能を引き受ける。

8-3.ナショナリズム――軽躁的同一化の極点

ナショナリズムは、集団的軽躁状態の最も純粋な形の一つである。

  • 自集団への誇大化
  • 歴史の単純化
  • 他集団への攻撃性

ここでは「国」は理性的な制度単位ではなく、感情的身体として体験される。「命を捧げてもよい」という感覚が生じるのは、軽躁状態に特有の自己保存本能の低下と一致する。


9.「祭り」「革命」「戦争」の比較

以下では、三つの現象を集団的軽躁状態の持続時間と制御度という観点から比較する。

9-1.祭り――安全弁としての軽躁

祭りは、集団的軽躁状態を時間・空間的に限定した形で許容する。

  • 酒、音楽、踊り
  • 性的・攻撃的衝動の一時的解放
  • 翌日には日常へ戻るという前提

祭りは「狂ってよいが、狂い続けてはいけない」という社会的合意の上に成立している。言い換えれば、軽躁の安全な排出口である。

9-2.革命――長期化する軽躁

革命は、祭りと戦争の中間に位置する。

  • 既存秩序の否定
  • 未来への万能的期待
  • 仲間と敵の急速な分極化

革命が成功しても、その後に失望や粛清が続くのは、軽躁状態が必ず反転するためである。革命期の高揚は、社会全体の躁エピソードと捉えることができる。

9-3.戦争――制度化された軽躁

戦争は、集団的軽躁状態を国家レベルで持続させる試みである。

  • 英雄化
  • 犠牲の美化
  • 敵の非人間化

戦時に見られる性的逸脱や暴力の増加は、副次的な逸脱ではなく、軽躁状態の必然的帰結である。戦争は、集団的軽躁を最大限に動員するが、その代償も最大である。


10.総合的含意――現代社会の危うさ

現代社会は、一見すると理性的で管理された社会である。しかし実際には、

  • 危機が慢性化している
  • 宗教的緩衝装置が弱体化している
  • 祭り的安全弁が失われつつある

その結果、集団的軽躁状態は断続的かつ制御不能な形で噴出しやすくなっている。

政治的過激化、陰謀論、分断、暴力的言説は、病理というより、出口を失った集団的軽躁の表現である可能性が高い。


11.中間まとめ

集団的軽躁状態は、人類史から消えることはない。
問題は、それを

  • どこで
  • どの程度
  • どのように制御するか

である。

祭りとして管理されるのか、政治として動員されるのか、戦争として暴走するのか。
その選択は、社会の成熟度ではなく、危機への向き合い方を映し出している。



12.「回復モデル」と集団的軽躁状態の相性の悪さ

回復モデル(recovery model)は、個人の主体性・自己決定・意味づけを中心に据える。
そこでは、

  • 症状は人生の一部であり、全体を規定しない
  • 回復とは「元に戻る」ことではなく「自分なりに生きる」こと
  • 他者は支配者ではなく支援者である

という前提が共有されている。

しかし、集団的軽躁状態は、この前提と根本的に噛み合わない。

軽躁状態では、

  • 主体性は「私」から「われわれ」へと溶解する
  • 意味は内省からではなく、外部の物語から一気に与えられる
  • 自己決定は、情動的同調に置き換えられる

回復モデルが要請する「立ち止まり」「語り直し」「曖昧さへの耐性」は、軽躁状態にとっては耐え難い遅さと不安を伴う。
そのため、社会全体が軽躁化している局面では、回復モデルは「甘い」「現実を見ていない」「今はそれどころではない」と排除されやすい。

言い換えれば、回復モデルは集団的軽躁の時代に最も居心地が悪い思想である。


13.日本社会における「軽躁の外注」――空気と権威

日本社会の特徴は、集団的軽躁状態を個人が直接引き受けない点にある。

13-1.空気という外部化装置

「空気を読む」という言葉が示すように、日本では情動の方向づけが「空気」に委ねられる。

  • 誰も命令していない
  • しかし、逆らうと居場所を失う
  • 責任主体が曖昧

これは、集団的軽躁の感情的指令を外部化する装置である。
個人は「自分が興奮している」のではなく、「空気がそうさせている」と感じる。

13-2.権威への委託

同時に、日本では軽躁的決断が権威に委託されやすい。

  • 専門家
  • 上層部
  • 前例

ここでの権威は必ずしも強力な指導者ではない。むしろ「決めないことを決める」ための緩衝材である。
軽躁のリスク――無謀な決断や暴走――は、匿名化された権威に薄く分散される。

13-3.結果として起きること

この「外注構造」により、日本では、

  • 集団的軽躁は起きるが、誰も興奮していないと言う
  • 決断はなされるが、決断者が不在
  • 後になって誰も責任を取らない

という特異な現象が生じる。


14.臨床家はこの現象をどう読むべきか

14-1.「個人の症状」に還元しない

臨床家がまず避けるべきは、社会的軽躁を個人の躁症状や未熟さに還元することである。

  • 「空気に流されやすい性格」
  • 「依存的な人」

といった診断的言語は、現象の本質を隠してしまう。

14-2.軽躁が「守っているもの」を読む

軽躁状態は、常に何かを守っている。

  • 絶望に直面しないため
  • 立ち止まると崩れてしまう生活を維持するため
  • 集団から排除されないため

臨床家の役割は、軽躁を止めることではなく、それが何を防いでいるのかを言語化することにある。

14-3.回復モデルの再定義

回復モデルは、軽躁と対立するのではなく、時間軸をずらすことで初めて機能する。

  • 社会が興奮している間は、無理に内省を促さない
  • 個人が疲弊し、静まり始めたときに言葉を差し出す
  • 「正気に戻れ」ではなく「戻る場所を用意する」

回復とは、集団的軽躁からの軟着陸を支える営みである。

14-4.臨床家自身の立ち位置

最後に、最も重要なのは、臨床家自身が集団的軽躁に巻き込まれていないかである。

  • 正義感の過剰
  • 急進的な言説
  • 「今こそ声を上げるべきだ」という焦燥

臨床家が軽躁化すると、支援は説得や動員に変わる。
沈黙は逃避ではない。沈黙は、興奮に対する最後の倫理的抵抗であることがある。


15.結語――静けさを引き受ける仕事

集団が軽躁化している時代に、
回復モデルを語ることは、流れに逆らう行為である。

しかし臨床は、
盛り上げる仕事ではない。
正しい物語を与える仕事でもない。

興奮が過ぎ去ったあと、誰かが戻ってこられる場所を残すこと。

それが、集団的軽躁の時代における臨床家の仕事である。

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