かつて大学の一般教養では、 「人文系の学生は、まずマルクス、フロイト、ウェーバーを学ぶべきだ」 と言われていた時代があった。
冷戦が終わり、その言葉は時代遅れになったかに見えた。 しかし2020年代の世界は、奇妙なかたちで彼らを呼び戻している。
マルクスは、革命の理論家としてではなく、 格差と不安定化を生む資本主義の診断者として再読されている。
フロイトは、主流心理学から退いたが、 言葉にならない苦しみを扱う問いとして、いまも臨床の底流にある。
ウェーバーは、派手な復活はしない。 しかし、合理性が人間を縛る時代に、 **「意味が制度に吸い取られていく過程」**を最も正確に言語化した思想家である。
三人が共通していたのは、 人間を「単純な合理的存在」として扱わなかった点だ。
だからこそ、 不安が商品化され、 専門性が空洞化し、 「正しさ」だけが増殖する現代において、 彼らは再び読み返される。
教養とは、過去の知識ではない。 現在を理解するために、過去を呼び戻す力である。
Ⅰ.「三人の巨人」はいま、どこにいるのか
1.マルクス —— 崩壊したのは国家社会主義であって、問題設定ではない
ソ連崩壊=マルクスの敗北
という理解は、90年代にはほぼ常識でした。
しかし2000年代以降、評価は明確に変わっています。
何が変わったのか
- 崩壊したのは
→ 計画経済・一党独裁・国家社会主義 - 残り続けているのは
→ 資本主義が生む構造的矛盾の分析枠組み
近年の再評価の背景には、
- 格差の固定化
- グローバル資本による労働の不安定化
- プラットフォーム資本主義(GAFAなど)
- 気候危機と「成長至上主義」への疑問
があります。
現代のマルクスは、
- 革命の理論家というより
- 「資本主義の病理を読む臨床家」
として読まれています。
たとえば、
- デヴィッド・ハーヴェイ(地理学×マルクス)
- トマ・ピケティ(不平等の実証分析)
- ポスト・マルクス主義(ラクロウ、ムフ)
などは、
**「マルクス以後のマルクス」**を代表する流れです。
2.フロイト —— 主流から外れたが、消えたわけではない
心理学の制度史を見ると、フロイトは確かに「周縁化」されました。
- 行動主義
- 認知科学
- 認知行動療法(CBT)
これらは、
- 実証可能
- 再現性がある
- 医療制度と相性が良い
という理由で主流になりました。
しかし、ここが重要です
フロイトが問い続けた問題は、どこにも消えていない。
たとえば、
- 人はなぜ同じ失敗を繰り返すのか
- なぜ「わかっていてもやめられない」のか
- なぜ言葉にできない苦しみがあるのか
これらは、
CBTだけでは完全には扱えない領域です。
そのため現在は、
- 精神分析的精神療法
- 対象関係論
- 愛着理論
- メンタライゼーション
- トラウマ理論
などの形で、
フロイトの遺産は「名前を変えて」生き残っています。
重要なのは、
精神分析をそのまま保存することではなく、
何を問いとして引き継ぐか
という点です。
3.ウェーバー —— 「意味」と「制度」をつなぐ思想家
ウェーバーについて「その後が見えにくい」と感じられるのは、実は自然です。
なぜなら彼は、
- イズムを作らなかった
- 学派を作らなかった
- 革命も治療法も提示しなかった
からです。
しかし、現代社会を読むうえで、
最も静かに、しかし深く使われ続けているのがウェーバーです。
ウェーバーの核心
- 人間は「意味」を求めて行為する
- しかし制度は、その意味を離れて自律化する
- 結果として人は「合理性の檻」に閉じ込められる
この視点は、
- 官僚制
- 新自由主義
- KPI管理
- エビデンス至上主義
- マニュアル化された医療・教育
を読む際に、極めて有効です。
現代の例で言えば、
- 「正しい手続きは踏んでいるが、誰も救われていない」
- 「合理的だが、納得できない」
- 「意味が空洞化した専門性」
こうした感覚は、まさにウェーバー的です。
Ⅱ.三人を「いま」読むということ
この三人は、実はそれぞれ異なる次元を担当しています。
| 思想家 | 主な射程 |
|---|---|
| マルクス | 社会構造・経済・権力 |
| フロイト | 心理構造・無意識・欲動 |
| ウェーバー | 意味・行為・制度 |
現代の困難は、
- 個人の問題でもあり
- 社会の問題でもあり
- しかし「意味」の言葉が失われている
という三重構造を持っています。
だからこそ、
- マルクスだけでも足りない
- フロイトだけでも閉じる
- ウェーバーだけでも冷たくなる
三人を同時に読む必要が、再び生じているのです。
Ⅰ.臨床家の視点から、三人をどう使い分けるか
まず大前提:三人は「理論」ではなく「レンズ」
臨床でマルクス・フロイト・ウェーバーを使う、というと
「治療技法に応用できるのか?」
と問われがちですが、ここでの使い方は違います。
彼らは
👉 患者を“どう理解するか”のレンズ
です。
診断名よりも前、技法よりも前の、
世界の見え方を調整する道具。
1.マルクス的レンズ ——「この苦しみは、誰の責任にされているか」
マルクスは、臨床でこう使えます。
- この苦しみは
本当に「本人の努力不足」なのか? - どこまでが
社会構造・労働条件・制度の問題か? - 「自己責任」という言葉は、
どこで内面化されたのか?
臨床場面の例
- 過労・燃え尽き
- 非正規雇用による慢性的抑うつ
- 「ちゃんとできない自分」への強い自己非難
ここでマルクス的視点がないと、
臨床は簡単にこうなります。
「考え方を変えましょう」
「ストレス対処を学びましょう」
それ自体は間違いではない。
しかし、構造の問題を個人の認知に押し戻す危険があります。
マルクスは、臨床家を
共犯的な自己責任論から引き離す役割を果たします。
2.フロイト的レンズ ——「なぜ“わかっているのに”変われないのか」
フロイトは、
CBTがもっとも苦手とする問いを引き受けます。
- なぜ同じ関係パターンを繰り返すのか
- なぜ症状が「手放されたがらない」のか
- なぜ回復が、どこかで怖くなるのか
臨床場面の例
- 依存
- 対人関係の反復的破綻
- 症状への強い同一化
- 「治りたいはずなのに治りたくない」感じ
フロイト的視点がないと、
- 抵抗は「非協力」
- 後退は「失敗」
として扱われがちです。
しかしフロイトは、こう問い直します。
その症状は、
その人にとって、何を守ってきたのか?
これは、回復を
機能の問題ではなく、意味の問題として扱う視点です。
3.ウェーバー的レンズ ——「この人は、どんな“合理性の檻”にいるのか」
ウェーバーは、
マルクスとフロイトの“あいだ”を読む視点をくれます。
- この人は、
どんな「正しさ」に縛られているのか - どんな規範が、
生き方を硬直させているのか - その合理性は、
どこで本人の意味を失ったのか
臨床場面の例
- 完璧主義
- 過剰適応
- 「正しいことはしているのに、空しい」
- 医療・教育・福祉の専門職自身の疲弊
ウェーバーは、
- 患者だけでなく
- 臨床家自身が制度に呑み込まれる危険
も照らします。
EBM、ガイドライン、評価指標――
それらが「意味」を奪う瞬間を、可視化するのがウェーバーです。
Ⅱ.CBT・回復モデルと三人の思想の交差点
1.CBTは「敵」ではない。ただし万能でもない
CBTは、
- 技術として洗練され
- 医療制度と相性がよく
- 多くの人を確実に助けてきました。
問題はCBTそのものではなく、
CBTだけで世界を説明しようとするときに生じます。
2.CBT × マルクス —— 認知は、どこから来たのか
CBTは、
- 認知の歪み
- 自動思考
を扱います。
ここにマルクスを重ねると、問いが一段深くなります。
- その認知は、
どんな社会条件で形成されたのか? - その「歪み」は、
適応戦略だったのではないか?
つまり、
認知を修正する前に、
それが生き延びるために必要だった歴史を読む
この視点が加わると、
CBTはずっと非暴力的になります。
3.CBT × フロイト —— 技法の外にあるもの
CBTが扱うのは、
- 意識化できる思考
- 言語化可能な信念
フロイトが扱ったのは、
- 言葉になる前の経験
- 身体化
- 関係性の反復
ここは競合ではなく、分業です。
- CBT:
変えられる部分を、確実に変える - フロイト的視点:
すぐには変えられないものと共にいる
この両立ができると、
臨床は急がなくなります。
4.回復モデル × ウェーバー —— 意味は管理できない
回復モデルは、
- 希望
- 自己決定
- 意味ある人生
を重視します。
しかし制度化されると、
- 回復度の評価
- 目標設定
- 成果指標
が前面に出てきます。
ここでウェーバーが警告します。
意味は、
合理的に管理し始めた瞬間に、逃げていく
回復モデルが生きるのは、
- 目標が未定形であること
- 遠回りが許されること
- 「回復しない自由」を含むこと
この“余白”を守るのが、
ウェーバー的感覚です。
Ⅲ.まとめ
臨床で、マルクス・フロイト・ウェーバーをどう使うか
臨床家にとって、
マルクス、フロイト、ウェーバーは
治療技法ではない。
彼らは、
「この苦しみを、どこに位置づけるか」を決める
視点の道具である。
マルクスは、
苦しみが安易に自己責任に回収されるのを止める。
フロイトは、
「わかっているのに変われない」人間の複雑さを守る。
ウェーバーは、
正しさと合理性が意味を奪う瞬間を可視化する。
CBTも回復モデルも、
それ自体は有効で、必要なものだ。
しかし、
それらが唯一の言語になったとき、
臨床は制度の一部になり、
人間から離れていく。
三人の思想は、
臨床を「うまくやる」ためのものではない。
臨床が人間の側に留まり続けるための、ブレーキである。
