Leonhard Euler の公式
Albert Einstein の式
などを見て、不思議だと思うのだが、どうだろうか。
アインシュタインの式は、エネルギーと、質量と、光速度の関係で、
この3つはそれまでは別々のもので、このような内在的な関係があるとはだれも思っていなかったと思う。
オイラーの式も同様で、eとiとπはそれぞれ別の世界のもので、このような内在的関係があるとはだれも思っていなかったと思う。
これらの式は、それまで無関係と思われていた概念同士を、 たった一つの簡潔な関係式にまとめてしまったからである。
e(自然対数の底)
i(虚数単位)
π(円周率)
はまったく別の文脈で発見された概念だった。
それらが、ある日、一つの必然的関係として結びつく。これは、単なる計算の成功ではなく、 「世界の構造が見えてしまった」という感覚を与える。その意味で、まるで魔法のように感じられるのである。
ニュートンが微分と積分の関係を明らかにした。
古代ギリシャの Archimedes は、円の面積を無限に細かい部分に分けて求めようとした。これは積分的な発想である。
しかし「変化の瞬間」を扱う微分は、もっと後の時代に明確になった。
そして Isaac Newton は、
微分と積分が互いに逆演算であることを示した。
この瞬間、数学は単なる計算技術ではなく、
自然の変化そのものを記述する言語になった。
これこそ、数学と物理学の勝利である。他の学問分野は、これを模範形として目指すようになった。
その時、結局、対象を測定して、数的な演算可能なものにすること、そうすれば数学が使える、そこに魔法のコツがあった。
光学でいえば、光の色を普通言語で、赤とか黄色とか言っていたのでは、数学が使いにくい。光の周波数で測定して、現象を表現することによって、数学が使えるようになり、自然科学として、模範形に近づくようになる。
例えば、精神医学では、抑うつ、妄想、不安といった現象を扱う。 しかし、それらを物理量のように「客観的な数値」として扱うことは難しい。血圧や体温のように、誰が測っても同じ値になる指標が少ないからである。そのため、自然科学のように数学的に厳密な体系へ進むことが難しい。ここに、自然科学と精神医学の大きな差がある。
このようにして、数学の偉大な力はこれまで証明され続けているのであるが、数学が自然を解明するのは、なぜなのだろうか。
Immanuel Kant は、 人間の認識には経験に先立つ枠組み(アプリオリ)があると考えた。だから数学が可能であり、 その枠組みによって自然が理解できるのだ、と説明した。しかしこの説明は、ある意味で問題を一段奥へ押し込んだにすぎない。「なぜその枠組みが自然と一致するのか」という疑問は、 依然として残るからである。
私も実際、そう言うほかはないし、言えるのはそれだけだと思うのだが、考えてみれば、物理の実験を計画するのも、測定するのも、その結果を計算したり意味付けしたりするのも、結局は人間の脳である。
私としては、素朴実在論の立場であり、何か超越的なことを言うつもりはない。自然法則は法則として、人間の脳とは関係なく、実在していただろうし、人間が出現する前の世界でも、当然、自然法則はその通りにく機能していたはずである。
しかし、素朴な実在の内部に隠されている自然法則を見つけることができたのは人間の脳であって、脳がなければ、認識も生まれないというも事実である。
その点から言えば、自然法則も、半分は素朴実在の内部のものであるが、半分は、人間の脳の特性に由来するのではないかとも思えてくる。
何にしても、考え、設計し、測定し、計算し、意味付けするのは人間の脳なのだ。素朴実在だけでは起こらないことである。半分は脳の特性が影響していると考えざるを得ない。
動物行動学者の Konrad Lorenz は、進化論的認識論を提唱した。生物は、生存に有利な認知能力を持つものが選択される。もし世界に規則性があり、 それをある程度正確に把握できる個体が生き残りやすいならば、 「世界の構造を写し取る神経系」が進化しても不思議ではない。脳は、長い時間をかけて、 世界のパターンを内部に写し取ってきた。その結果、 世界の構造と脳の構造が、ある程度似たものになった。数学は、その内部構造の抽象化である。だから数学が自然に適合するのは、 ある意味で当然かもしれない。
このような表現は、目的の介在を感じさせるかもしれないが、そうではない。DNAの変化は、どのようなメカニズムか、はっきりはしないが、目的適応的にではなく、ランダムに発生する。そして、環境の側も、偶然である。それは氷河期かもしれない。恐竜がいるかもしれない。大乾燥かもしれない。DNAも環境も、ランダムで無目的な状況にあり、しかしそれでも、うまく生き延びて、種を残すDNAが存在した。
DNAの変異がランダムというのは不正確かもしれない。例えば、極端な推測をすれば、ある種のウィルスは、個体のDNAの一部を切り取り、外部に拡散し、感染して、精子や卵子にDNAの一部を組み込んで、短時間のうちに、爆発的に変化を起こすような可能性もある。性淘汰が基本であるから、ランダムでは非常に能率が悪い。また有利な形質が発生したとしても、それが種の内部に広がるまでは、中間的な形質の個体が大量に発生する。それで生き延びられるとも考えにくい。この話は脱線として、ここまでにする。
そのように、脳は世界の法則を内部に転写して保存した。つまり、そのような脳を持つようなDNAが選択されていった。結果として、知性が発生し、数学が使われるようになった。
日本には和算があった。かなり高度な発達をした。しかし、西洋の自然科学の形にはならなかった。中国では非常に高度な文明があったし、西洋に先んじて、羅針盤も、大航海も、火薬も、漢方薬も、あったのだが、西洋的自然科学にはならなかった。なぜだろうか。人間関係によらず、権威によらず、実験により、いつでも、どこでも、誰がやっても、同じ結果を生じる、そのような実験主義がなぜもっと発達しなかったのだろう。中国式の科挙官僚主義があり、権威主義であったり、過度に古典依存、文献依存であったりと、特殊性はあった。しかし例えば、隣国と戦争をするときの、武器や食料や交通などの要素は、実験的に磨かれていったはずである。
西洋のルネサンスを準備したアラビア文化はなぜ覇権を握ることができなかったのだろう。
個人的には、中国と西洋の大きな違いは、アラビア数字を取り入れていた点だと思っている。ニュートン流の微分積分操作はアラビア数字だからこそ、美しいのではないか。中国式や日本式の表記でも、同じ内容は表現できるだろうけれども、西洋式アラビア数字ほどには成功しなかったのではないか。
西洋自然科学とはいっても、西洋にも、魔女狩りの時代もあったし、錬金術の時代もあり、そうした中の一つの流派が、西洋自然科学として残ったのだろうと思う。最初から、洗練された自然科学があったのではない。非常に怪しげな、雑多なものの中から、精錬されて、やっと出現したとも思われる。魔術の一種であった時代があったのである。
ともあれ、数学がこれほど有効である理由を考えると、一つにはローレンツが言うように、長い年月をかけて、脳は自然を模倣して、法則を内在化して数学として結晶させた。これが進化論的認識論である。
また、結局、認識の営みは、すべては脳が行っていることであって、外部実在の中に法則は潜むだろうけれども、それを認識するのは脳なのであるから、脳の特性が非常に大きく影響していることは間違いない。
自然法則は、世界の側に存在する。しかし、それを「法則」として抽出し、式として書き下すのは脳である。もし脳の構造が違っていれば、 世界はまったく違う形で理解されたかもしれない。
その意味で、自然法則は半分は外部実在に由来し半分は脳の特性に依存していると言えるのではないか。
数学が成功しているのは、脳が考え、脳が判定しているからである。自分が考えたものを、自分で素晴らしいと感動しているのだから、それはそれで分かりやすい話である。
残念だが、私には数学を直接扱う才能はないかもしれない。しかし、 なぜ数学がこれほどまでに世界に適合するのかを考えることもまた、 人間の知性の一つの営みである。
