脳内世界モデルと進化論的認識論
― 情報処理装置としての認知の適応的基礎 ―
要旨
本稿は、脳内世界モデルを情報構造として理解する立場を、進化論的認識論と接続することを目的とする。認知は世界の忠実な再現ではなく、生存に有利な構造的写像として進化したと考えられる。この観点から、脳内世界モデルは真理追求装置ではなく、適応的予測装置であることが明らかになる。さらに、数学との親和性は、世界と脳が共に構造的制約の下で進化した結果であると再定式化される。
1.問題の所在
前稿において、脳は世界を物質としてではなく、構造化された情報として処理していると論じた。脳内世界モデルは外界の縮小コピーではなく、行為遂行に必要な関係性のみを抽象化した情報構造である。
しかし、ここで根本的な問いが生じる。
なぜ脳はそのような世界モデルを形成しうるのか。
なぜそのモデルは、一定程度、外界と整合するのか。
この問いに答える理論枠組みが進化論的認識論である。
2.進化論的認識論の基本構造
進化論的認識論は、認識能力を自然選択の産物とみなす立場である。この立場は Konrad Lorenz によって体系化された。
その基本命題は次の通りである。
- 生物は環境内で生存競争を行う。
- 環境には一定の安定した規則性が存在する。
- その規則性を適切に把握できる個体は生存に有利である。
したがって、認知構造は環境構造の近似写像として進化する。
ここで重要なのは、「真理に一致するから残る」のではなく、「生存に役立つから残る」という点である。
3.世界モデルの適応的意味
脳内世界モデルは、行為を調整する予測装置として機能する。
投球の例で示したように、脳は
- 行為を企図し
- 内部モデルで予測し
- 出力し
- 誤差を検出し
- モデルを更新する
という循環過程を持つ。
この循環は、生存にとって決定的に重要である。
捕食者から逃げる場合も、道具を使用する場合も、社会的相互作用においても、予測能力が適応度を高める。
したがって、脳内世界モデルは「真理の鏡」ではなく、「適応的予測装置」として進化したと理解できる。
4.近似写像としての認知
進化論的観点から重要なのは、認知が完全な写像である必要はないという点である。
必要なのは、十分な精度である。
例えば:
- 捕食者を過剰検出する傾向
- 意図を過剰帰属する傾向
これらは厳密な真理とは異なるが、生存上は有利でありうる。
この観点からすれば、脳内世界モデルは常に近似的であり、簡略化され、抽象化されている。情報化とは、この近似写像の形式そのものである。
5.情報構造としての進化的整合
ここで、情報存在論的視点と統合する。
- 世界は一定の構造的制約を持つ。
- その制約は長期的に安定している。
- 生物はその制約に適応する形で進化する。
このとき、生物の神経系に形成される構造は、環境の情報構造と部分的に同型的になる。
したがって、
世界の構造
→ 神経構造
→ 脳内世界モデル
という階層的写像が成立する。
この写像の連鎖こそが、認知の進化的基盤である。
6.数学との再接続
脳が扱っているのは構造化された情報である。
その操作は予測、誤差検出、更新という形式を取る。
これらは数学的構造と親和的である。
数学が自然に適合する理由は、世界と脳がともに構造的制約の下で形成されたからである。数学は、その構造を抽象化した体系である。
ここで数学は超越的真理の言語ではなく、
進化的に形成された構造処理様式の外在化と理解できる。
7.精神医学的含意
この枠組みは精神医学に重要な示唆を与える。
もし脳内世界モデルが進化的適応装置であるならば、
- 錯誤は適応的ヒューリスティックの副作用である。
- 妄想は世界モデル更新機構の破綻である。
認知の異常は、進化的に形成された構造写像機構の過剰または不全として理解できる。
8.結論
脳内世界モデルは、情報構造としての環境に適応するために進化した予測装置である。
認知は真理の鏡ではなく、生存のための構造的近似である。
この視点に立つと、
- 情報化
- 抽象化
- 数学との親和性
- 認知の誤り
はすべて、進化という単一の原理の下で統合的に理解される。
進化論的認識論は、脳と世界の整合性を超越的奇跡としてではなく、自然史の帰結として説明する理論枠組みを提供するのである。
