以下は、二つのテキスト(2008年版「自我障害時間遅延モデル」と2026年版「時間遅延モデル」)を統合し、理論構造を整理し直し、精神医学論文として読める形に再構成したものです。
専門家向けの水準を保ちつつも、初学者にも理解可能なように、
- 概念の定義
- 仮説の最小化(simple)
- 適用範囲(pervasive)
- 臨床症状との対応
- 神経科学的接続
- 進化論的含意
- 薬理・精神療法との統合
までを明確に分節化しています。
自我障害の時間遅延モデル
―能動感・自己所属感の神経時間構造仮説―
要旨
本論文は、自我障害を「内部予測信号と外界感覚信号の到達時間差」という最小限の仮定で説明する「時間遅延モデル」を再構成するものである。
本モデルは以下の仮説に基づく。
自我の能動性(sense of agency)および自己所属感(sense of ownership)は、
「内部シミュレーション信号(B)」と
「外界からの感覚フィードバック信号(A)」
の到達順序と時間差によって決定される。
この単純な時間構造の乱れが、
- させられ体験
- 自生思考
- 思考吹入・思考奪取
- 幻聴
- 被影響体験
- 離人症
- 強迫性障害
- 妄想形成
を連続体として説明可能であることを示す。
I. 理論的前提
1. 二重世界モデル仮説
脳には二つのレベルの世界モデルが存在する。
(1) 世界モデル1:自動機械系
- S-R回路に近い
- 小脳的 forward model 機構
- 無意識的予測
- 自動化された運動・認知処理
(2) 世界モデル2:自意識系
- 内省的
- 自己反省可能
- シミュレーションを意識化する
- 階層的に最上位
これは、伊藤正男の小脳forward model理論、Eccles的階層説、自己モニタリング仮説と整合的である。
2. 行為の基本回路
行為は以下のプロセスで進行する。
① 内部で運動シミュレーション(B)
② 実際に運動出力
③ 外界からの感覚フィードバック(A)
④ AとBを照合
⑤ モデルを訂正
重要なのは④である。
この「照合部位」において、
- Bが先に到達 → 能動感
- Aが先に到達 → 被動感
が発生するというのが本理論の核心である。
II. 時間差と自我体験の連続体
1. 能動性のスペクトラム
| 時間差 | 体験 |
|---|---|
| B ≫ A | 強い能動感 |
| B > A | 通常の能動感 |
| B ≒ A | 自生思考 |
| A > B | させられ体験 |
| A ≫ B | 思考吹入・幻聴 |
つまり、自我の能動性障害は連続体である。
この点は、カール・ヤスパースの自我障害論や、クルト・シュナイダーの一級症状とも整合的に理解できる。
2. 自己所属感のスペクトラム
自己所属感(ownership)も同様に時間差で説明できる。
- B先行 → 自己所属
- A先行 → 外部所属
例:
- 強迫性障害:能動性は低いが所有感は保たれる
- 幻聴:所有感が外部化される
- 思考奪取:所有感の消失
- 被影響体験:自己境界の破壊
III. 各精神症状の再解釈
1. 統合失調症
(a) させられ体験
A先行 → 被動感
(b) 思考化声
内部思考が外部音声として知覚される
(c) 命令型幻聴
内部予測が他者由来として誤帰属
(d) 被害妄想
被動感を合理化する二次的解釈
本モデルでは、妄想は一次的障害ではなく、
時間遅延による違和感を説明しようとする合理化過程
とみなす。
2. 強迫性障害
- 自動機械が行為を実行
- 自意識が止めたいが連結が弱い
→ ownershipは保たれる
→ agencyが弱い
したがって、統合失調症とは異なる。
3. 離人症
世界モデルと外界の微細なズレ
- 予測が連続的にわずかに外れる
- モノの「ものらしさ」が失われる
これは重度の時間逆転ではなく、
「予測誤差の慢性的微小累積」
と理解できる。
4. 解離
- 世界モデル2が複数化
- 自意識の選択的優位化
これは時間遅延より構造分裂の問題。
IV. 神経科学的整合性
本理論は、
- forward model 仮説
- self-monitoring 仮説
- shared representation 仮説
と整合的である。
また、ベンジャミン・リベットの意識と運動の時間差研究とも関連する。
ただし本モデルは、
意識の自由意志問題ではなく
「到達順序の主観的知覚」が問題である
点で区別される。
V. 進化論的含意
自意識は進化的に後発回路である。
- 自動機械回路の上に乗る
- 抑制的・促進的に制御する
- なくても生命維持は可能
したがって:
後発回路は不安定であり、崩れやすい
自我は進化的に「壊れやすい構造」である。
VI. 薬理学的含意
仮説的対応:
- 11系(内部予測) → 中脳皮質系ドーパミン
- 12系(外部帰属化) → 中脳辺縁系ドーパミン
D2ブロッカーは12系を抑制し、
被動感を軽減する。
しかし世界モデルの修正までは行わない。
VII. 精神療法との統合
精神療法の目的は:
世界モデルの再構築
である。
時間遅延が軽減された状態で、
- 新しい人間モデル
- 新しい意味づけ
- 新しい予測構造
を形成する。
精神療法家は、
代替的世界モデルの提供者
である。
VIII. 本モデルの特性
simple
時間差のみで説明する。
pervasive
統合失調症、強迫、離人、解離まで説明可能。
elegant
連続体として理解できる。
beautiful
主観体験の構造を時間軸で再記述する。
IX. 今後の課題
- 実証的時間測定
- 予測誤差理論との統合
- AIモデルとの比較
- 自我の倫理的責任帰属との関係
結語
自我障害とは、
内部予測と外界現実の時間構造の破綻
である。
能動性も所有感も、
実体ではなく時間関係である。
自我とは、
固定的な「もの」ではなく、
予測と現実の到達順序が生み出す現象
である。
この理解は、
精神病理を機械論的に矮小化するためではなく、
患者が
「なぜこんな体験が起こるのか」
を理解できるようにするためである。
理解可能性の回復こそが、
自我の回復の第一歩である。
