排除と包摂 現実と理想 空気と空 そして商売


一 排除の論理の現在

近年、政治的言説において顕著なのは、「包摂」の語が弱さの徴として扱われることである。

包摂を語る者は「甘い」。
排除を語る者は「現実的」。

この構図は単純である。
恐怖を前提にすれば、排除は合理的に見える。

  • 自分の命が危険にさらされるかもしれない
  • 家族が脅かされるかもしれない

そのとき「まず守れ」と言う声は強い。
そして強い声は、論理を必要としない。

問題は、ここで行われているのが思考ではなく、空気の操作である点だ。

論理は検証を要する。
しかし空気は共有されるだけで成立する。

排除の言説は、しばしばこの「共有された恐怖」によって正当化される。


二 包摂は甘いのか

包摂とは何か。

それは無条件の受容ではない。
それは境界をなくすことでもない。

包摂とは、
「他者を排除することでしか自己を保てないという発想」を拒否することだ。

排除の論理は、
自己を常に脆弱なものとして前提する。

すなわち、

私は常に奪われる可能性の中にある

という前提である。

ここでは自己は孤立している。
だから外部は脅威になる。

包摂が甘いのではない。
孤立を前提する思考が不安定なのだ。


三 空と強制の誤解

仏教の「空」は、
「すでに関係の網の目の中にある」という理解を示す。

しかしこの言葉は、別の恐怖を呼び起こす。

もしすでに関係の中にあるのなら、

  • 逃げ場はないのではないか
  • 同調を強制されるのではないか
  • 全体に吸収されるのではないか

つまり、「空」が全体主義に転化するのではないかという疑念である。

この疑念は正当である。
歴史はそれを何度も示してきた。

関係性を強調する思想が、
個の自由を圧殺する装置になった例は少なくない。

したがって、

空は孤立を否定するが、
強制的統合を肯定するわけではない。

この区別が重要である。


四 関係と支配の違い

関係は事実である。
支配は構造である。

関係は、相互に成り立つ。
支配は、一方向に成立する。

空が言うのは前者であって、後者ではない。

「私は他者なしには成り立たない」

という理解は、

「私は他者に従属しなければならない」

という命令とは異なる。

ところが政治言説においては、この二つが意図的に混同される。

排除の論理はこう言う。

彼らを排除しなければ、我々は支配される。

つまり関係を支配として再解釈する。

ここで恐怖が増幅される。


五 拒絶の自由

あなたが感じている違和感は、ここにある。

もし空が「すでに関係の中にある」ことを示すなら、
拒絶の自由はどこにあるのか。

答えはこうである。

拒絶の自由はある。
しかし拒絶しても、関係性そのものは消えない。

他者を嫌うことはできる。
距離を取ることもできる。

しかし「無関係になる」ことはできない。

この不可避性が、
自由を奪うのではなく、
自由を現実的にする。

なぜなら、

完全な孤立は幻想だからである。


六 排除の論理が商売になる理由

排除は単純である。

  • 敵を設定する
  • 不安を刺激する
  • 自己を被害者として位置づける

この三点で、強い結束が生まれる。

包摂は複雑である。

  • 境界を精査し
  • 恐怖を相対化し
  • 相互依存を認める

それは即効性がない。
したがって商売になりにくい。

しかし、即効性があるものが常に正しいとは限らない。


七 空の政治的含意

空はこう言う。

  • 自己は独立して存在しない
  • 他者もまた独立して存在しない

したがって、

他者を完全に排除することは、自己をも傷つける

これは道徳的主張ではない。
構造的主張である。

この理解は甘さではない。
冷静さである。


八 結語

包摂はお花畑ではない。
排除は勇気ではない。

問題は、自己をどう前提するかである。

自己を孤立した城塞と見るなら、
外部は常に敵になる。

自己を関係の中の結節点と見るなら、
敵対は選択の一つであって、必然ではない。

空は、支配を強要しない。
むしろ、支配の幻想をほどく。

そしてそのとき初めて、
排除も包摂も、冷静な選択肢として検討できる。

恐怖の空気ではなく、
論理の光の下で。


タイトルとURLをコピーしました