第三話「失敗しました」
十二月の診察室は、乾いていた。暖房が効きすぎているのか、それとも十二月というのはそういう月なのか、K医師にはよくわからなかった。加湿器を置くことを何度か考えたが、いつも忘れた。
A.S.さんは予約時刻ちょうどに来た。先月もそうだった。几帳面さが、だんだんK医師の中で彼女の輪郭の一部になりつつあった。紺のコートは今日も同じだったが、マフラーが増えていた。グレーの、細いもの。
「寒くなりましたね」とK医師は言った。
「そうですね」とA.S.さんは言った。
それだけだった。挨拶というより、確認、という感じだった。
椅子に座って、A.S.さんはしばらく黙っていた。今日は最初から何かを準備してきた様子だった。言葉を、ではなく、言うという決意を。K医師にはそれがわかった。経験と、それから直感の、混ざり合ったところでわかった。
「先月、一つ覚えておいてきてください、とおっしゃいましたよね」
「はい」
「覚えてきたんですが」A.S.さんは膝の上で手を組んだ。「失敗しました、という話でもあって」
「どうぞ」
「職場で、プレゼンがあったんです。小さいやつですが、自分が担当で。前の日から、どうせうまくいかないと思っていて、実際、途中で言葉に詰まって」
K医師は待った。
「そのとき、ふっと思ったんです。あ、これが天気だ、と。先生が最初においっしゃっていた、心の天気。私は天気がなくなったと言いましたが、そのとき、ちゃんと雨が降っていました」
診察室が、静かになった。加湿器のない、乾いた静けさだった。
K医師はそれを聞きながら、胸の中で何かが動くのを感じた。動く、というより、少し位置がずれる、という感じだった。
「言葉が詰まったとき、どんな感じでしたか」
「恥ずかしかったです。あと、あ、やっぱり、という感じ」
「やっぱり、というのは」
「どうせうまくいかないと思っていたのが、当たった、という」A.S.さんは少し苦い顔をした。「当たってうれしい、というわけじゃないんですが、なんというか、当然の結果というか」
「その後は」
「終わりました。プレゼンが。五分くらいのものだったので」A.S.さんはそこで少し息を吸った。「その後で、さっき天気だと思った、という話を思い出して。それで、覚えてきたのはそれです、と思って。失敗の話ですが」
失敗の話ですが、という言い方が、K医師には引っかかった。引っかかる、というのは、気になる、という意味だった。A.S.さんは「失敗しました」と「天気を見つけました」を、同じ出来事として持ってきていた。しかし彼女の中では、前者が後者を打ち消しているようだった。
「失敗した話とそうでない話、どちらが今日のメインですか」とK医師は聞いた。
A.S.さんは少し驚いた顔をした。
「……わからないです」
「私にもわかりません」とK医師は言った。「ただ、両方を持ってきてくれた、とは思っています」
A.S.さんはまた黙った。今度の沈黙は、少し質が違った。準備してきた言葉ではなく、その場で何かを探している沈黙だった。
「先月、失敗したとき、そこにいましたか」とK医師は言った。
「……どういう意味ですか」
「言葉が詰まったとき、その場にいた、という感じはありましたか。それとも、もう頭の中では別のことを考えていましたか」
A.S.さんはしばらく考えた。本当に考えていた。K医師はペンを机に置いた。
「いた、と思います」とA.S.さんは言った。「恥ずかしかったので。逃げ出したかったですが、体はそこにあって、恥ずかしさもそこにあって」
「天気を見つけたのも、そこでですね」
A.S.さんはしばらく黙っていた。そして、「そうですね」と言った。言ってから、少し意外そうな顔をした。自分の口から出た言葉に、少し遅れて気づいた、という顔だった。
「失敗したとき、今この部屋にいる感じがします」
その言葉をK医師は繰り返さなかった。繰り返さなくていい言葉というのがある。A.S.さんが自分で掘り出したその言葉は、繰り返すと何かが減る気がした。
K医師は「大丈夫です、うまくいきますよ」と言いかけた。言いかけて、止まった。
正確には、言葉が喉のあたりまで来て、そこで止まった。なぜ止まったのか、K医師にはうまく説明できなかった。言ってはいけない、という判断があったわけではない。ただ、その言葉はここには要らない、という感触があった。感触、というより、軽い抵抗感、と言った方が近かった。
その抵抗感の正体を、K医師はわかっていなかった。
「また一つ、持ってきてもらえますか」とK医師は言った。「失敗でも、天気でも、どちらでも」
「はい」とA.S.さんは言った。
診察が終わり、A.S.さんはグレーのマフラーを巻いた。慎重に、均等になるように。コートのボタンも、先月と同じ順番で上から留めた。
「また来月」
「来月」
ドアが閉まった。
K医師は机に戻った。カルテを開いた。今日書いたものを確認した。それから、ペンを持った。
何かを書こうとした。何を、というのがうまくわからなかった。
「失敗したとき、今この部屋にいる感じがします」という言葉を書き留めようとした。しかしそれはもうカルテに書いてあった。では何を書こうとしていたのか。
K医師はペンを持ったまま、窓の外を見た。
十二月の夕方の光だった。五時前なのに、もう暗くなりかけていた。空の端に、まだ少しだけ明るい帯があった。その色に名前をつけるとすれば何になるのか、K医師にはわからなかった。薄い橙でも、灰でも、ない。そのどれでもない何か。
A.S.さんは「天気がなくなった」と最初に言っていた。
今日、失敗したときに天気を見つけた、と言っていた。
K医師は自分が何を書こうとしていたのかを、結局書かなかった。ペンを置いて、窓の外を、もう少しだけ見ていた。明るい帯は、見ている間に少し薄くなった。
机の隅のメモ用紙は、今日も重石なく置いてあった。「最適な誤差の中にいるとき、人は少しずつ変わる」。
K医師はその言葉を読まなかった。読まなかったが、そこにあることはわかっていた。
