第六話「ズレたままで」
三月の午後。診察室に差し込む光は、冬の鋭さを失い、どこか粉を吹いたような柔らかさを帯びていた。ブラインドの隙間から漏れる光の縞が、床の上でゆっくりと形を変えていく。
A.S.さんは、明るいベージュのスプリングコートを着ていた。首元のマフラーはもうない。彼女が椅子に座る動作には、かつての硬質な丁寧さではなく、自分の体の重さを自然に預けるようなしなやかさがあった。
「先月お話ししたこと、試してみたんです」
彼女は少し照れたように、視線を窓の外へ泳がせてから言った。
「夫と、笑うこと。……でも、ドラマみたいに上手くはいきませんでした。夕食のとき、彼が仕事の失敗を自虐的に話したんです。私はそこで何か面白いことを言おうとしたんですけど、結局、言葉に詰まってしまって。ただ、変な顔で吹き出してしまったんです。お味噌汁を少しこぼしそうになるくらい」
彼女は指先で自分の口元をなぞった。
「夫は一瞬驚いた顔をして、それから『なんだよその顔』って笑い出して。……結局、私が用意していた『素敵な笑顔』とは程遠い、ひどく不格好な時間になってしまいました」
K医師は、その光景を頭の中に描いた。そこには、完璧に調律された楽器の音色のような調和はない。ただ、互いに少しずつ予測を外し、そのズレを修正しようとする、生身の人間同士の不器用な運動があった。
「それは、失敗だったと思いますか」
「いいえ」彼女は即座に首を振った。「うまくいったのかどうか、自分でもよくわかりません。でも、何か、これまでとは全く違った感じがしました。ピッタリではなかったけれど、あの日、私たちの間には確かに何かが伝わった。……そのズレた感じが、なんだかとても、心地よかったんです」
K医師は、机の上に置いていたペンをゆっくりと置いた。
彼の脳裏に、かつて救えなかった一人の患者の影がよぎった。あの時、自分は「正解」を与えようと急ぎすぎ、相手との間に生じた微かな誤差を、埋めるべき「欠陥」だと見なしてしまった。
だが、目の前にいるA.S.さんは、自分自身の力でその誤差の中に居場所を見つけようとしている。
「ピッタリうまくいかなかった。それが、むしろよかったのかもしれませんね」
K医師がそう言うと、A.S.さんは深く、深く頷いた。
「はい。完璧を目指していた頃より、今の方がずっと、自分が生きている感じがします。これからも、こうやってズレたり直したりしながら、やっていくんだと思います」
彼女の言葉は、治療の「完了」ではなく、終わりのない「運動」の始まりを告げていた。
診察が終わり、彼女は立ち上がった。コートのボタンを留める手つきは相変わらず丁寧だったが、一つひとつの動作の間に、微かな「遊び」があるように見えた。
「先生、ありがとうございました」
「ええ。また、何かあればいつでも」
ドアが閉まり、エレベーターが下りていく音が聞こえた。
診察室に、再び静寂が戻る。
K医師は椅子から立ち上がり、窓際に歩み寄った。三月の光の中で、埃の粒がゆっくりと舞っている。
彼は机の隅に目をやった。半年前からそこにある、一枚の小さなメモ。
『最適な誤差の中にいるとき、人は少しずつ変わる』
彼はその紙を手に取り、指先でその質感を確かめた。
書かれている言葉は、あの日書いたときと何ら変わりはない。
だが、今の彼にとって、その言葉の響きは全く別の意味を持って迫ってきた。
彼は、自分自身もまた、この半年間で修正され続けてきたのだと気づいた。彼女という「他者」との間に生じる予測不能な誤差。それに戸惑い、受け入れ、共に揺れ動くプロセスの中で、彼自身の理論も、彼自身の輪郭も、少しずつ変容していたのだ。
彼はメモを読み返し、ふっと息を吐いた。
何が違うのかを言葉にする必要はなかった。ただ、この静けさの中に、確かな重力が生まれていることだけがわかった。
K医師は、メモをそっと元の場所に戻した。重石はないが、もうそれが風で飛ばされるような気はしなかった。
窓の外では、三月の光が街を白く染めている。
ピッタリではない、でも確かに何かが伝わったという静けさの中で、物語は終わる。
彼はもう一度だけ窓の外を見てから、次の患者のカルテを開くために、ゆっくりと席に戻った。
