第四話「見ているのは誰ですか」
一月の診察室の空気は、肌を刺すように乾いていた。
加湿器の蒸気が白く立ちのぼるが、それは部屋の隅にある古い書棚の影に吸い込まれるように消えていく。窓の外には、雲ひとつない、痛いほどに青い冬の空が広がっていた。
予約の時刻を五分過ぎたところで、廊下に急ぎ足の音が響いた。
ドアが開くと、A.S.さんは少し肩を上下させ、呼吸を乱した状態で立っていた。いつもなら、彼女は数分前に到着し、静かに椅子に座って待っている。
「すみません、電車が……」
彼女が深々と頭を下げ、謝罪の言葉を続けようとしたとき、K医師は遮るように、短く言った。
「どうぞ」
それだけだった。
遅刻を責めることもなければ、「大丈夫ですよ」と過剰に安心させることもない。ただ、そこにある事実をそのまま受け流すような響きだった。
A.S.さんは拍子抜けしたように瞬きをひとつした。彼女はコートを脱ぎ、いつもの椅子に座った。だが、その指先は膝の上でそわそわと動き、謝罪しきれなかった言葉の残骸が、彼女の表情を強張らせていた。
「五分の遅れを、どう感じていましたか」
K医師が静かに尋ねた。
「……申し訳なくて、最悪な気分でした。また失敗した、と。電車の中で時計を見るたびに、自分のルーズさを責めていました。先生に呆れられるだろうな、とか、なんて説明しようか、とか……」
「そのとき、あなたの頭の中には『最悪な自分』がいたわけですね」
「はい。ずっと、その自分と戦っていました」
K医師は、少しの間を置いてから、彼女の目をまっすぐに見つめた。
「では、ひとつ聞かせてください」
「はい」
「その『最悪な自分』を眺めていたのは、誰ですか」
A.S.さんは、質問の意味を測りかねるように首を傾げた。
「誰、と言われましても……私ですが」
「ええ、あなたです。でも、責められている『ルーズな私』と、それを眺めて『最悪だ』と判断しているあなたは、少し離れた場所にいませんでしたか。電車の中で、焦っている自分を後ろから見つめている、もう一人のあなたはいませんでしたか」
診察室に、再び沈黙が訪れた。
一月の乾いた空気が、二人の間を埋めていく。
A.S.さんは視線を斜め下に落とし、何かを探すように記憶を辿っていた。彼女の眉間に寄っていた力が、ゆっくりと解けていくのがわかった。
「……いました」
彼女の声は、独り言のように小さかった。
「焦って、時計を見て、言い訳を考えている自分が、なんだか……とても小さく見えました。それを眺めている私は、ただ、眺めているだけでした。その私は、焦ってもいないし、悪くもありませんでした」
「その『眺めている場所』が、あなたの本体です」
K医師は、あえて淡々と言葉を置いた。
「感情や思考は、あなたの心という空を通り過ぎていく天気のようなものです。荒れる日もあれば、今日のように晴れる日もある。でも、空そのものは、天気に左右されることはありません。あなたは、その空なんです」
A.S.さんは、窓の外の青い空に目をやった。
それから、視線をゆっくりと部屋の中に戻し、K医師と目が合った。
そのときだった。
彼女の口元が、ほんのわずかに、柔らかく弧を描いた。
それは微笑みというにはあまりに儚い、雪が溶けるような変化だった。だが、この四ヶ月間で初めて、彼女の顔に「感情」ではない、「余裕」のような光が差した瞬間だった。
「……おかしな感覚ですね。先生に『どうぞ』と言われたとき、自分を責めていた私が、急に行き場をなくした気がしたんです」
「それは、私があなたの誤差を認め、流したからです。あなた自身も、それを流してよかったんですよ」
A.S.さんは、小さく「ふふ」と声を漏らした。
乾いた空気の中で、その笑い声は診察室の隅々まで届くような透明感を持っていた。
診察が終わり、彼女が席を立つ。
コートのボタンを留める手つきは、相変わらず几帳面だった。だが、最後の一つのボタンを留め終えたあと、彼女は自分の指先を不思議そうに見つめ、それから一礼して部屋を出て行った。
K医師は、彼女が去ったあとの診察室で、一月の西日を浴びていた。
手元のメモには、新しい言葉は何も書かれていない。
彼は先ほどの彼女の笑い声を思い出していた。
それは、理論によって導き出された「正解」の笑いではなかった。自分という存在のあまりの滑稽さと、その広大さに気づいたときにこぼれ落ちる、もっと根源的な何かだった。
「観察する自己」
K医師自身、その概念を完全に掴めているわけではない。
だが、今の彼女が残していった空気の軽やかさの中に、その答えの断片が漂っていることだけは、確かに感じ取ることができた。
彼は窓を開け、冷たい一月の風を部屋に入れた。
空はどこまでも青く、そこには何の痕跡も残っていなかった。
