第五話「義務じゃない答え」
二月は、光の角度が変わる月だった。
K医師はそれを毎年感じていたが、誰かに話したことはなかった。寒さは一月とほとんど変わらないのに、窓から差し込む光だけが、少し違う方向から来る。冬がまだそこにあるのに、光だけが先に動き始める。そういう月だった。
A.S.さんは今日も時間ちょうどに来た。
コートは同じ紺だったが、マフラーがなかった。代わりに、コートの襟を少し立てていた。それだけのことだったが、K医師は気づいた。気づいて、何も言わなかった。
「先月から、少し変わったことはありましたか」
A.S.さんは椅子に座って、少し考えた。考えるときに視線が右上に行く癖があることを、K医師は三回目の診察くらいから知っていた。
「夫が、珍しく早く帰ってきた日があって」
「珍しく」
「はい。いつもは私より遅いんですが、その日は私が帰ったらもういて」A.S.さんは少し間を置いた。「何を話せばいいかわからなかったです」
K医師はペンを置いた。置く、というより、持つのをやめた。
「何を話すべきか、ということを考えていましたか」
「はい、たぶん」
「べき、という感じで」
A.S.さんは少し首を傾けた。「……そうかもしれないです。夫婦なんだから話さなければ、みたいな」
「話さなければ」
「話せない自分がおかしいというか。普通は話せるはずなのに、というか」A.S.さんは膝の上で手を組んだ。「結局、夫が何か話してくれて、私は相槌を打って、それで終わりました。夕食の間ずっと、なんとなく、うまくいかなかった感じがしていました」
K医師はそれを聞いた。聞きながら、何かを急いではいけない、と思った。思った、というより、感じた。この話にはまだ続きがある。そういう感触だった。
「うまくいかなかった、というのは、どんな感じですか」
「なんというか」A.S.さんはしばらく探した。「夫がそこにいるのに、届いていない感じ。私の言葉が、ちゃんと夫に届いていない感じ」
「届いていない」
「はい。相槌は打っているんですが、本当に届いているのかどうか、自分でもよくわからなくて」
K医師は少し間を置いた。
「仕事以外で、最近、何か手が止まったことはありましたか」
A.S.さんは少し驚いた顔をした。話の方向が変わったからかもしれなかった。
「手が止まった」
「何かをしようとして、あるいはしていて、ふっと止まった、というような」
A.S.さんは考えた。視線が右上に行った。
「あります」と言った。「夫が早く帰ってきたその日の、夕食の後です」
K医師は待った。
「片付けが終わって、夫はテレビを見ていて、私はお茶を入れようとしていたんですが」A.S.さんの声が、少し変わった。変わった、というのは、低くなった、ということではなく、速度が落ちた、ということだった。「急に、このお茶は誰のためのお茶だろう、と思って」
「誰のため」
「義務で入れているのか、入れたくて入れているのか、わからなくなって。それで手が止まりました。結局入れましたが」
「入れたくて入れましたか」
A.S.さんはすぐには答えなかった。
窓の外で、何かが光った。曇り空の隙間から、一瞬だけ日が差したのかもしれなかった。診察室の床に、細い光の線が現れて、すぐに消えた。
「わからないです」とA.S.さんは言った。「義務じゃなかったかもしれないし、義務だったかもしれない。両方だったかもしれない」
「両方」
「はい。入れなければいけない気もしていたし、でも、夫が飲んでくれたらいいな、とも思っていたかもしれない」
K医師はそれを聞いた。
飲んでくれたらいいな、という言葉が、診察室の乾いた空気の中に少し残った。残った、というのはK医師の感触であって、実際に残るわけではないが、そういう言葉だった。
「飲んでくれましたか」
A.S.さんはまた少し驚いた顔をした。それからかすかに笑った。
「飲んでくれました」
「よかった」とK医師は言った。
気の利いたことを言おうとしたわけではなかった。ただ、よかった、と思ったから言った。A.S.さんは少し笑ったまま、「そうですね」と言った。
しばらく、静かだった。
悪くない静けさだった。何かを埋めなければいけない沈黙ではなく、何かがそこにある沈黙だった。
K医師は、その静けさを壊さないように、ゆっくり聞いた。
「夫と、どんなことがしたいですか。義務じゃない話で」
A.S.さんはすぐに答えなかった。
視線が右上に行った。それからまっすぐになった。それからまた少し動いた。いつもより長く探していた。K医師は待った。急がなかった。急ぐ理由が、どこにもなかった。
窓の光が、また少し変わった。二月の午後の光は、一月より少しだけ長く続く。
「笑いたいです」とA.S.さんは言った。
K医師は黙っていた。
「夫と、ちゃんと笑いたいです。義務じゃなくて。何かがおかしくて、二人で笑う、みたいな」A.S.さんは少し息を吸った。「最近、そういうことがなかった気がして」
「最近、というのはどのくらい」
「……長いです。何年か」
何年か、という言葉が、静かに落ちた。重くはなかった。ただ、そこにあった。
K医師は、自分がこの診察の最初に想定していた方向とは、話が全く違うところに来ていることに気づいた。想定、というほど明確なものを持っていたわけではなかったが、それでも違った。お茶の話になるとは思っていなかった。笑いの話になるとも。
違う方向に来た、ということを、K医師は悪いとは思わなかった。
思っていた方向ではなかった。しかしこちらの方が、何か本物に近い気がした。気がした、としか言えなかった。確かめる方法がなかった。ただ、A.S.さんが「笑いたいです」と言ったとき、その言葉は義務の言葉ではなかった。何かもっと内側から来ていた。
「笑いたい、という気持ちがあるんですね」とK医師は言った。
言ってから、少し後悔した。当たり前のことを言った、という感じがした。しかしA.S.さんは、
「そうですね」と言った。「あるんだと思います。気づいていなかっただけで」
気づいていなかっただけで、という言葉の後に、短い沈黙があった。
K医師はその沈黙の中で、かつての患者のことをふっと思った。思った、というより、よぎった。顔ではなく、「あのとき自分は急ぎすぎた」という感触だけが、一瞬あって、消えた。今日は急いでいない。それだけがわかった。
「来月、また聞かせてください」とK医師は言った。「笑えたかどうかじゃなくて、どんなことを考えていたか」
A.S.さんは頷いた。「はい」と言った。それからもう一度、「はい」と言った。二度言ったことに、本人は気づいていないようだった。
診察が終わり、A.S.さんはコートを着た。今日は襟を立てたまま帰った。
「来月」
「来月」
ドアが閉まった。
K医師は少しの間、椅子に座ったままでいた。立ち上がる理由が、まだなかった。
カルテを開いた。今日書いたものを見た。「お茶、誰のため」という走り書きがあった。その下に「笑いたい(何年か)」とあった。括弧の中の三文字が、K医師にはなぜか長く見えた。
窓の外の光が、少し傾いていた。二月の夕方の光だった。一月より確かに、少し長かった。
K医師はメモ用紙を、今日は意識して見た。「最適な誤差の中にいるとき、人は少しずつ変わる」。
お茶を入れながら手が止まった、という話を、この言葉は想定していただろうか。していない、とK医師は思った。していないが、外れてもいない。
どちらが変わったのか、とは、今日も書いていなかった。
第五話、以上です。
「しばらく」の入口として、お茶のエピソードを経由させました。「義務か否か」という問いが、夫が早く帰ってきた日の夕食という具体的な場面の中で既に動いていて、A.S.さん自身がそれを持ってくる、という構造にしています。「笑いたいです」という言葉は、K医師が価値を問う質問への答えとして出てくるのではなく、お茶の話、届かない感じ、飲んでくれたらいいな、という経路を経て、A.S.さんが自分で掘り出す形にしました。
内言の概念語については、K医師が「思っていた方向ではなかった。しかしこちらの方が本物に近い気がした」と感じる場面で、「最適誤差」という言葉を一切使わず、その感触だけを残しています。
