第六話「ズレたままで」
三月になると、光が戻ってくる。
戻ってくる、というのは正確ではないかもしれない。光はずっとそこにあった。ただ、三月になると、それを光と呼んでいいような気がしてくる。K医師は毎年そう思っていた。思っていたことを、誰かに話したことはなかった。二月に窓の光が変わることも、三月にそれを光と呼べるようになることも、K医師の中だけにある暦だった。
A.S.さんは今日も時間ちょうどに来た。
コートを脱いだ。紺のコートだった。六ヶ月間、同じコートだった。しかし今日は、その下が少し違った。明るい色のセーターだった。K医師は気づいた。気づいて、何も言わなかった。
「先月から、どうでしたか」
A.S.さんは椅子に座った。手を膝の上に置いた。いつもより、少し力が抜けている感じがした。
「笑いました」と言った。
K医師は待った。
「夫と。大したことじゃないんですが」A.S.さんは少し俯いた。俯いたまま続けた。「夫が料理をしようとして、レシピを見ながら作っていたんですが、途中で材料が足りなくて。でも足りないまま作ったら、変な味になって」
「変な味」
「はい。食べられないほどじゃないんですが、何の料理かわからない感じになって。夫がすごく真剣に食べていたら、おかしくなってしまって」
A.S.さんは顔を上げた。今、少し笑っていた。話しながら、またおかしくなった、という顔だった。
「笑いましたか」
「笑いました。夫も笑って、二人で笑いました」
K医師はそれを聞いた。
何かが、胸の中でかすかに動いた。動いた、という言葉しかなかった。それが何なのか、K医師にはうまく言えなかった。A.S.さんが初めて来た十月から、五ヶ月が経っていた。五ヶ月の間に積み重なってきたものが、今、小さく動いた。そういう感触だった。
「どんな感じでしたか」
「笑っているとき」A.S.さんは少し考えた。「義務じゃなかったです。確かに」
確かに、という言葉が、診察室に静かに置かれた。
「その後は」
「その後も、少し話しました。料理の話じゃなくて、なんというか、どうでもいい話を。夫の職場の話とか。私も少し話して」A.S.さんはそこで少し間を置いた。「うまくいったのかどうか、わかりません。ちゃんと届いていたかどうかも。でも何か、違った感じがしました」
違った感じ、とA.S.さんは言った。
K医師は繰り返さなかった。
「違った感じというのを、もう少し」と言いかけて、止まった。
止まったのは、聞かなくていい、と思ったからではなかった。A.S.さんが「違った感じがしました」と言ったとき、その言葉はもう完結していた。それ以上開かせる必要が、どこにもなかった。
「そうですか」とK医師は言った。
A.S.さんは頷いた。
しばらく、静かだった。
三月の静けさだった。冬の静けさとは少し違った。何かが終わりかけていて、何かが始まりかけている、そういう静けさだった。K医師はその静けさの中で、何かを急ごうとしている自分がいないことに気づいた。
「先生」とA.S.さんが言った。
「はい」
「私、治ったんでしょうか」
K医師は少し考えた。考える、というより、その問いをそのまま受け取った。
「どう思いますか」とK医師は聞いた。
A.S.さんはまた視線を右上に向けた。それからまっすぐにした。
「わかりません。天気は、戻ってきた気がします。でも、また薄くなるかもしれないし」
「なるかもしれません」とK医師は言った。「また薄くなったとき、どうしますか」
「……来ます」とA.S.さんは言った。少し間があった。「来てもいいですか」
「どうぞ」
A.S.さんは少し笑った。笑い、というより、息が緩んだ、という感じだった。第四話の一月の笑いとは、また違う種類の笑いだった。
「治る、という言葉は、私にはよくわかりません」とK医師は言った。「ただ、今日ここで話してくれたことは、本当のことだと思っています」
「本当のこと」
「笑ったことも、うまくいったかどうかわからないことも。ピッタリうまくいかなかったことが、むしろよかったかもしれない、と私は思っています」
A.S.さんはそれを聞いた。少しの間、黙っていた。
「ピッタリじゃなくてよかった、というのは」
「笑いたいと思っていた。笑った。でもそれで全部解決した感じはしない」K医師は少し間を置いた。「その続きがあるから、またここに来られる」
A.S.さんは黙っていた。
黙っていたが、何かを受け取った、という顔だった。受け取った、というのも正確ではないかもしれない。何かに触れた、という方が近かった。
診察が終わり、A.S.さんはコートを着た。今日は丁寧に、ゆっくりとボタンを留めた。上から順番に、一つも飛ばさずに。最初の日と同じだった。
「また、薄くなったら来ます」
「待っています」
ドアが閉まった。
K医師は廊下に出た。エレベーターに向かうA.S.さんの背中を見た。紺のコートが廊下の角で見えなくなった。最初の日も、こうして見送った。
今日の背中は、最初の日と同じだったか、違ったか。K医師には判断できなかった。同じコートだった。しかし五ヶ月が経っていた。
判断できないまま、診察室に戻った。
机に座った。カルテを閉じた。次の患者は、もういなかった。今日はA.S.さんが最後だった。
窓の外は、まだ明るかった。三月の夕方は、十二月や一月より長い。その長さが、今日は少しありがたかった。
K医師はコートを取ろうとして、止まった。
机の隅のメモ用紙が、目に入った。
重石もなく置いてある、あの一枚。K医師はそれを手に取った。いつもは目だけで確認するか、確認もしないかだったが、今日は手に取った。なぜそうしたのか、自分でもわからなかった。
「最適な誤差の中にいるとき、人は少しずつ変わる」
文字は変わっていなかった。
自分がこれを書いたのはいつだったか、今日もわからなかった。どんな患者のことを考えながら書いたのかも、もう思い出せなかった。
しかし読んだとき、何かが違った。
何が違うのかを、K医師は考えようとした。考えながら、やめた。言葉にすると、何かが減る気がした。
変わる、とこのメモには書いてある。少しずつ、変わる。
どちらが、とは書いていない。今日もそこには書いていなかった。書いていないままで、五ヶ月が経っていた。
K医師はメモをそのまま机の上に戻した。重石はなかった。それでもどこかへ飛んでいくことはなく、いつもの場所に、いつものように置かれた。
窓の外は三月の光だった。
暗くなるまで、まだ少し時間があった。
