B第一話「天気がなくなった」


第一話「天気がなくなった」

 十月の午後、K医師の診察室には西日が斜めに差し込んでいた。ブラインドを半分下ろしても、光は細い縞になって床を渡り、どこかへ消えた。消えた先のことを、K医師は考えなかった。

 机の隅に、小さなメモ用紙が一枚、重石もなく置いてある。自分のために書いたものだ。

人は相手を予測することで安心し、予測が外れることで驚き、動く。ピッタリすぎる関係も、全く読めない関係も、人を疲弊させる。最適な誤差の中にいるとき、人は少しずつ変わる。

 この言葉を書いたのはいつだったか、もう思い出せない。

 A.S.さんが診察室に入ってきたのは、予約時刻の三分後だった。三分は誤差の範囲だとK医師は思った。誤差という言葉が頭に浮かんだことに、本人は気づかなかった。

 三十五歳。紺のコートを脱いで、椅子に座った。膝の上に手を置いた。きちんと。

「初めてですね」とK医師は言った。

「はい」とA.S.さんは言った。

 それだけで、しばらく間があった。その間をK医師は急がなかった。

「何か、困っていることを話してもらえますか。どんな小さなことでも」

「……感情が、なくなった感じがするんです」

 K医師はペンを持ったが、書かなかった。

「なくなった、というのは」

「うまく言えないんですが」A.S.さんは少し俯いた。「悲しくない、というわけじゃないんです。でも何かが、薄い。ずっと薄い」

「いつごろから」

「三年くらい、だと思います。最初はそういうものかと思って。仕事が忙しかったので」

 K医師はそこで初めて何かを書いた。A.S.さんには見えなかった。

 診察の中頃、K医師は「心の天気」という比喩を使った。晴れの日も雨の日も、それをただ観察する練習がある、という話をしようとした。実際にそういう話をした。言葉は滑らかに出た。いつも使う言葉だった。

 しかしA.S.さんは少し首を傾げた。

「あの……先生のおっしゃることは何となくわかるんですが」

 K医師は待った。

「私の場合は、雨が降っているというより、天気そのものがなくなった感じで」

 診察室が、かすかに静かになった。

 K医師はその静けさの中で、自分の比喩が空振りしたことを知った。空振り、というより、的がどこか別の場所にあった、という感じだった。

「そうか」とK医師は言った。「天気がなくなった」

 繰り返すことで、K医師はその言葉の重さを確かめた。自分の言葉ではなかった。患者の言葉だった。

「それは私の例えが足りなかったかもしれない」

 A.S.さんは少し驚いた顔をした。謝られるとは思っていなかった。謝られた、というより、何かを認められた、という感じだったかもしれない。自分でもよくわからなかった。

 ただ、胸のどこかが、ほんのわずかに、緩んだ。

 完璧にわかってもらえたわけではなかった。むしろ、わかってもらえなかったことが確認された瞬間だったかもしれない。なのに、なぜか少し楽になった。A.S.さんはその理由を考えなかった。考えられなかった、というほうが正確だ。ただそれは起きた。

 診察が終わった。
 A.S.さんはコートを着た。ゆっくりと、ボタンを上から順番に留めた。几帳面な人だ、とK医師は思った。自分の感情の薄れについて話しながら、ボタンは一つも飛ばさなかった。

「来月、また来られますか」

「はい」

「何か気になることがあれば、それだけでいいので、一つ覚えておいてきてください。大きなことじゃなくていい」

 A.S.さんは頷いた。何かを言おうとして、言わなかった。

 ドアが閉まった。

 K医師は廊下に出て、エレベーターに向かうA.S.さんの背中を、少しの間見ていた。紺のコートが、廊下の角で見えなくなった。

 診察が全部終わった後、K医師は机に戻った。今日書いたカルテを確認した。A.S.さんのページに、「天気がなくなった」という言葉が、カルテの文体とは少し違う書き方でメモされていた。括弧付きで。

 K医師はその言葉をもう一度読んだ。

 自分の理論の中に、この言葉はなかった。感情の平板化でも、アレキシサイミアでも、離人感でもない。そのどれとも違う何かを、A.S.さんは自分で掘り出してきた。

 天気がなくなった。

 それはK医師が想定していた地図の、少し外側にある地名だった。

 窓の外は暗くなっていた。十月の夕方は早い。K医師はメモ用紙を一瞥した。「最適な誤差の中にいるとき、人は少しずつ変わる」。書いた言葉はそのままそこにあった。

 少しずつ、変わる。

 どちらが、とは書いていなかった。

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