第二話「歌えません」
十一月。深まる秋とともに、街の色彩は一段と落ち着きを増していた。診察室の窓から見える街路樹は、カサカサと乾いた音を立てて葉を落としている。
A.S.さんは、先月よりも少し厚手の、濃紺のウールコートを着ていた。彼女が席に座ると、わずかに冷えた空気の匂いが部屋に広がった。
「最近、どうですか」
K医師が尋ねると、彼女はしばらく自分の指先を見つめていた。それから、独り言のような低い声で言った。
「歌えなくなりました」
「歌、ですか」
「以前は、家で料理をしたり掃除をしたりするとき、よく鼻歌を歌っていたんです。特に意識していたわけではないんですが。でも、ふと気づくと、この三年間、一度も歌っていないんです。喉の奥に、何か冷たくて固い塊があるみたいで、声が外に出てこないんです」
彼女は喉元に手をやった。その指先が微かに震えている。
「私はなんて冷たい人間なんだろう、と思います。夫があんなに気を使ってくれているのに。私はただ、無表情で、声も出さずに、毎日をこなしているだけ。私は、ダメな人間です」
彼女の言葉が鋭い刃となって、彼女自身に向けられていた。
その時、K医師の脳裏に、ある「影」がよぎった。
数年前、この部屋に通っていた一人の若い男性の記憶だ。彼は今のA.S.さんと同じように、自責の念に押し潰されそうになっていた。あの時、K医師は彼を救いたいと焦るあまり、矢継ぎ早に言葉を投げかけ、解決策を提示し、彼の痛みを追い越してしまった。
最後の日、その男性が去り際に見せた、絶望とも諦めともつかないあの表情。
(あのとき、自分は急ぎすぎた)
その感触が、苦い後味とともに蘇る。K医師は、唇を開きかけたまま、一瞬だけ動きを止めた。
診察室に、数秒の空白が生まれた。
それはわずかな「遅れ」だった。だが、その停滞が、結果としてA.S.さんに「自分の言葉が今、相手の深くまで届いている」という感覚を与えた。
「……A.S.さん」K医師は、先ほどよりも少し速度を落として言った。「今、あなたの心の中で、一人の裁判官があなたを裁いているような気がします。『私はダメな人間だ』という判決を下している。でも、少し言い方を変えてみませんか」
「言い方を、ですか」
「『私はダメな人間だ』ではなく、『私の心が、私はダメな人間だ、と言っている』と。ほんの少しだけ、言葉の間に隙間を作ってみてください」
A.S.さんは、不思議そうな顔をしてその言葉を繰り返した。
「私の心が、私はダメな人間だ、と言っている……」
何度か唱えるうちに、彼女の表情からわずかに険しさが取れた。
「なんだか……変な感じです。少しだけ、他人事みたいで。……そう言ってみると、さっきまで私を縛り付けていた言葉が、ただの音の連なりみたいに聞こえます」
彼女の目が、ほんの少しだけ見開かれた。
その瞬間、彼女の口元がかすかに震え、小さな笑みがこぼれそうになった。それはまだ「笑い」と呼べるほどのものではなかったが、乾いた大地に一滴の水が染み込んだような、微かな生気の兆しだった。
だが、彼女はそれ以上表情を動かさず、笑いを喉の奥で踏みとどまらせた。
K医師もまた、それを無理に引き出そうとはしなかった。
「今は、その変な感じを、そのまま持っておいてください。歌えないことも、心が何かを言っていることも、そのままに」
診察が終わり、A.S.さんは立ち上がった。
彼女が去ったあと、K医師はしばらく椅子から動かなかった。
かつての患者の影は、依然として部屋の隅に漂っている。だが、その影があったからこそ、自分は今日、彼女の言葉を「急がずに」待つことができた。
彼は万年筆を手に取り、カルテの隅に小さな走り書きをした。
「思考と、それを眺める自分。その間のわずかな距離」
窓の外では、陽が落ち、冷たい夕闇が診察室の輪郭をゆっくりと塗りつぶし始めていた。十一月の夜は、もうすぐそこまで来ていた。
