うつ病ACT診察例B 3-3

第三回目は、これまでのプロセスを統合し、「受容(アクセプタンス)」の概念を深めると同時に、治療の核心である「価値(Values)に基づいた行動」へとつなげる重要な局面です。

この回では、患者がテクニックを試した結果(成功も失敗も含む)を振り返り、ヘキサゴン全体を見渡しながら、「苦痛を消すこと」ではなく「苦痛があっても、どう生きたいか」という、治療の最終的な目的地を確認します。


精神科診察室:第三回(さらに一週間後)

登場人物:

  • 佐藤医師
  • 田中さん

(田中さんは少し表情に陰りがあるが、前回よりも落ち着いた、静かな佇まいで入室してくる)

佐藤医師: 「こんにちは。今日まで三回目ですね。この一週間、体調や気分はいかがでしたか?」

田中さん: (少し俯きながら)「……はい。眠りは、まだ少し不安定な日があります。……あ、でも、前回お話しした『言葉を付け足す練習』は、何度かやってみました。」

佐藤医師: 「(優しく)そうだったんですね。実際に試してみることができた、それ自体が素晴らしい一歩ですよ。……やってみて、何か変化や、逆に難しさを感じたことはありましたか?」

田中さん: 「……うーん、上手くいった時もあります。上司に注意された直後、『あ、今自分は、すごく落ち込んでいるという考えを持っているな』って、少しだけ一歩引けた感覚がありました。でも……(ため息)……そう思えたとしても、心臓がバクバクして、涙が出て止まらなくなるのは、やっぱり止められなくて。結局、その『嫌な気持ち』をどうにかして消さなきゃって、またパニックになってしまって……。」

佐藤医師: 「なるほど。言葉で距離を置こうとしても、身体的な反応や強い感情が押し寄せてくると、どうしても圧倒されてしまう。それはとても自然なことです。……田中さん、『嫌な気持ちをどうにかして消さなきゃ』と思った時、その瞬間、心の中では何が起きていましたか?」

田中さん: 「……また、あの『泥沼』です。涙や不安という泥が、もっと激しく私にまとわりついてくるような……。消そうとすればするほど、余計に苦しくなって……。」

佐藤医師: (ゆっくりと頷く)「そうですか。では、今日ここで、もう一つの柱である『受容(アクセプしています)』についてお話しさせてください。前回、脱フュージョンで『思考』との距離を置く練習をしましたが、今回はその隣にある、『感情や身体感覚』への向き合い方です。」

田中さん: 「……感情も、距離を置けるようになるんですか?」

佐藤医師: 「『遠ざける』というよりは、『そこにいてもいいよ』と許可を出す、というイメージに近いです。例えば、今、心臓がドキドキしたり、胸が締め付けられるような感覚があっても、それを『排除すべき敵』として戦うのではなく、『あ、今ここに、不安という嵐が通り過ぎているな』と、ただ観察してみる。……これを『受容』と言います。」

田中さん: 「……でも、そんな風に放置してしまったら、もっとひどいことになりそうで……怖いです。」

佐藤医師: (ヘキサゴンの図を指差しながら)「怖いですよね。でも、考えてみてください。今までの田中さんは、嵐(不安)を追い出そうとして、全力で暴れていました。その『嵐と戦う力』が、実は田中さんを疲れさせ、仕事のミスという別の問題を引き起こしている側面もある……。もし、嵐が通り過ぎるのを、ただ横で見守ることはできたら……?」

田中さん: (図を見つめながら、深く呼吸をする)「……嵐を追い出さなくていい……。でも、嵐の中にいるのは変わりないんですよね。」

的な医師: 「その通りです。嵐はそこにあります。でも、嵐と戦うために力を使わなければ、少なくとも『嵐に飲み込まれて動けなくなること』は防げるかもしれません。そして、ここが一番大切なのですが……もし、嵐が横を通り過ぎている間に、少しだけエネルギーが空いたとしたら、そのエネルギーをどこに向けたいですか?」

田中さん: (沈黙。しばらくの間、医師の目を見つめる)「……(小さな声で)……あの上司に、怯えるんじゃなくて……ちゃんと、自分の仕事の結果として、『これなら納得できる』と思えるような、丁寧な確認作業に戻りたいです。」

佐藤医師: 「(微笑んで)いいですね。それが『価値(Values)』です。ヘキサゴンの一番下の部分にある、すべての土台となるものです。……『不安を消すこと』がゴールではなく、『不安という嵐が通り過ぎるのを眺めながらでも、自分の大切にしたい仕事のやり方へ一歩踏み出すこと』。これが、この六角形の図が目指す、しなやかな心の姿なんです。」

田中さん: (少し涙ぐみながらも、どこか決意したような表情で)「……嵐を見守りながら、でも、自分のやるべきことは進める……。なんだか、すごく難しいけれど……今の私には、それくらいしか、残っていない気がします。」

佐藤医師: 「(力強く)その通りです。一度にすべてはできません。まずは、不安が来た時に『あ、今、嵐が来ているな』と気づくだけでいい。そして、もし少しでも力が湧いたら、小さな一歩……例えば、メールの確認を一つ、丁寧に行う、といったことから始めていきましょう。お薬の調整も含め、私たちは引き続き、田中さんがこの『地図』を使って進んでいけるよう、サポートしていきます。」

田中さん: 「……はい。……少し、やってみたいと思います。……ありがとうございます。」

(田中さんは、前回よりもわずかに背筋を伸ばし、診察室を後にする。医師はヘキサゴンの図に、『価値へのコミットメント』と書き加える)


【解説:この診察で行われたACT的介入】

  1. 受容(Acceptance)の導入:
    「感情をコントロールしようとする努力」自体が苦痛を増幅させている(体験的回避)ことを指摘し、感情を排除するのではなく、そこに存在することを許容するアプローチを提示しました。
  2. 脱フュージョンと受容の統合:
    「思考との距離(脱フュージョン)」と「感情の受容」を、別々のテクニックではなく、一つの目的(心理的柔軟性)のための異なるプロセスとして統合して示しました。
  3. 価値(Values)への接続:
    治療の焦点を「症状の消失」から「価値に基づいた行動」へと完全にシフトさせました。これにより、患者は「不安がある状態でも、自分にはできることがある」という希望(自己効力感)を見出しました。
  4. コミットメント(Commitment)の形成:
    「嵐の中でも一歩踏み出す」という具体的な、かつ小さな行動目標を設定することで、治療の継続的な指針を示しました。
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