これはいわゆる **「ニーダム問題(Needham Question)」**として知られる、科学史・文明論の核心的論点。
高度な技術・数学・観測を持っていた中国文明で、
なぜ17世紀以降の西欧的自然科学(近代科学)が成立しなかったのか
以下、主要な見解を系統別に紹介します。相互に排他的ではなく、近年は「重ね合わせ」で理解されることが多い。
Ⅰ.思想・世界観に注目する見解
① ニーダム自身の見解
「有機的自然観」説
要点
- 中国思想(道家・陰陽五行)は
- 自然=相互連関する有機体
- 西欧近代科学は
- 自然=法則に従う機械
結果
- 中国:
- 記述・分類・調和の探究に強い
- 普遍法則の抽象化に向かいにくい
- 西欧:
- 数学化・法則化・実験操作へ
👉 「自然を支配・操作する」発想が弱かった
※ 近年は
「それを欠陥と呼ぶのは西欧中心主義ではないか」
という批判も強い。
② ウェーバー的視点
「合理化の方向の違い」説
要点
- 中国:
- 実践的合理性(行政・暦・治水)
- 西欧:
- 理論的合理性(自然法則の体系化)
背景
- 中国知識人の理想=官僚
- 西欧知識人の理想=学者・神学者
👉 科学が
官僚的知の一部に吸収され、独立しなかった
Ⅱ.制度・社会構造に注目する見解
③ 科挙制度抑制説
要点
- 優秀な知的資源が
- 科挙(経書・文章)に集中
- 数学・自然研究は
- 出世と無関係
結果
- 学問の動機が
- 真理探究 → 官僚登用
に転換
- 真理探究 → 官僚登用
👉 知のエネルギーの制度的配分問題
④ 大統一国家説
(エルマンなど)
要点
- 中国は
- 早期に巨大統一国家を実現
- 異端・競争的学派が
- 制度的に淘汰されやすい
西欧との対照
- 西欧:
- 小国分立
- 大学の自治
- 異端が逃げ場を持つ
👉 競争的知的生態系の欠如
Ⅲ.宗教・形而上学に注目する見解
⑤ キリスト教神学促進説
(マートン・ホワイト仮説)
要点
- 神は合理的に世界を創造
- 自然法則=神の意志の反映
- 人間はそれを解読する義務がある
👉
- 自然法則探究が
- 宗教的使命になった
中国では
- 超越神の不在
- 自然は崇拝・調和の対象
👉 法則探索への強迫的動機が弱い
Ⅳ.経済・技術条件に注目する見解
⑥ 技術的満足説
(エルヴィン・ジョーンズ的)
要点
- 中国は
- 技術的に「十分うまくいっていた」
- 生産性の壁が
- しばらく顕在化しない
西欧は
- 資源不足
- 人口圧
- エネルギー制約
👉 危機がイノベーションを促した
⑦ 軍事・航海圧力説
要点
- 西欧:
- 砲術・航海・測量の必要
- 中国:
- 陸上統治中心
- 軍事技術は国家独占
👉 数学化・実験化の需要差
Ⅴ.偶然性・歴史的連鎖を重視する見解
⑧ 「たまたま」説(近年増加)
要点
- 科学革命は
- 印刷
- 大学
- 宗教改革
- パトロン
- 戦争
が偶然に連結
👉
- 中国では
その連結が起きなかっただけ
必然的優劣ではない
Ⅵ.近年の統合的理解(有力)
現在もっとも支持されやすい整理は次です。
中国文明は
① 実践的・統治的・有機的合理性において極めて高度だった
② その合理性は
近代自然科学の「数学化・普遍化・反証性」とは
異なる方向に最適化されていた
③ 西欧的自然科学は
例外的条件と暴力的拡張によって
事後的に「普遍」となった
👉 「遅れ」ではなく「別の完成形」
Ⅶ.日本との比較が示す補足
- 日本:
- 統一国家だが小規模
- 中国文明を部分的に受容
- 江戸後期に蘭学という「抜け道」
👉 中国ほど完成していなかったことが、
逆に可塑性を残した。
Ⅷ.一文でまとめるなら
中国文明が西欧的自然科学を生まなかったのは、
理性が不足していたからではなく、
自然・知・国家・人間の関係をめぐる合理性が、
すでに別のかたちで完成していたからである。
そして近代科学は、
人類史の必然ではなく、
きわめて特殊な歴史的事故だった、
という理解が、現在もっとも慎重で誠実な立場だと思います。
