日本の精神医療が引き受けてきた歴史的役割と、そこから生じうる倫理的危険


日本の精神医療が引き受けてきた歴史的役割と、そこから生じうる倫理的危険


精神医療は、当初から「治る/治らない」という医学的軸だけで成立してきたわけではない。むしろ社会の側が、処理しきれなかったもの、語りきれなかったものを預ける場所として形成されてきた、という点にその特異性がある。

精神医療が引き受けてきたのは、典型的には次の三つである。

  • うまくいかない人
  • 社会に適応できない人
  • 説明できない苦しみ

これらはいずれも、近代日本社会が前提としてきた「標準的人間像」から逸脱した存在や経験である。勤勉で、家族を形成し、学歴や職歴を積み上げ、社会的役割を果たす——そのモデルに適合しない人々は、しばしば失敗者として理解されてきた。

重要なのは、ここでいう「失敗」が、必ずしも個人の能力不足や病理に由来するものではないという点である。むしろ、社会構造の硬直性、制度の画一性、関係性の貧困といった要因が、特定の人々を「うまくいかない位置」に押し出してきた側面が大きい。

しかし社会は、自らの構造的限界を正面から引き受けることができない。その結果、失敗の原因は個人の内面に回収される。適応できないのは「その人の問題」、苦しみが続くのは「心の問題」として再定義される。こうして精神医療は、日本社会が引き受けきれなかった「失敗」を預かる場所として機能してきた。

この点で、精神医療は単なる医療制度ではなく、社会の緩衝地帯であり、制度の外部を内側に囲い込む装置でもあった。刑務所や福祉施設、教育の特別支援と同様に、精神科は「社会にそのまま置いておけない存在」を一時的に隔離し、再調整する役割を担ってきたのである。

日本では特に、「家」や「職場」といった中間集団が精神的問題を内部で処理しきれなくなった時、その受け皿として精神医療が拡張していった。結果として、精神医療は治療の場であると同時に、社会的失敗を無害化する場所として特別視されるようになった。


ここに、深刻な危険が生まれる。

精神医療が「失敗を預かる場所」であることを自覚しないまま制度化されると、次のような転倒が起こる。

  • 診断名が「意味」になる
  • 治療が「正しさ」になる
  • 回復できないことが「倫理的失敗」になる

本来、診断名とは暫定的な理解の枠組みであり、治療とは試行錯誤の過程である。しかしそれが、患者の人生全体を説明する最終的な意味として用いられるとき、診断は宗教的教義に近づく。

「あなたは◯◯障害だから、こう感じ、こう振る舞うのだ」という語りは、一見すると理解や安心を与えるように見える。しかし同時に、それは他の意味づけの可能性を閉ざす力を持つ。家族関係、社会的抑圧、偶然性、存在論的不安といった要素が、診断名の背後に押しやられていく。

同様に、治療が「正しさ」になると、治療に従うこと自体が倫理的に善とされ、従えないことが問題視される。服薬、通院、リハビリ、社会復帰——それらは本来、本人の人生文脈の中で選択されるべきものである。にもかかわらず、「治療的に正しい道」が一つしかないかのように語られるとき、精神医療は価値体系を内包し始める。

さらに危険なのは、回復できないことが「倫理的失敗」として理解される局面である。努力したか、治療を信じたか、指示に従ったか——こうした基準が暗黙のうちに導入され、回復しない状態は本人の姿勢や意欲の問題に還元される。

この構造は、救済宗教と驚くほど似ている。教義(診断)、実践(治療)、救済(回復)が体系化され、救われない者はどこかで「信仰が足りなかった」と解釈される。違いがあるとすれば、それが超越的存在ではなく、科学と専門性の言語で正当化されている点である。

精神医療が世俗化した救済宗教に近づくとき、患者は「苦しんでいる存在」ではなく、「正しく導かれるべき存在」へと変わってしまう。そして専門家は、支援者ではなく、意味と正しさの配分者になる。


精神医療の本来の倫理は、意味を与えることでも、正しさを教えることでもない。むしろ、意味が崩れ、正しさが通用しなくなった場所に、なお留まり続けることにある。

日本社会が引き受けきれなかった失敗や苦しみを、再び個人の責任に回収しないために、精神医療は自らが「特別な場所になってしまった理由」を忘れてはならない。その自覚を失ったとき、精神医療は治療ではなく、静かで善意に満ちた宗教へと変質してしまうのである。


家父長制秩序の中では、無能であっても、権力側にいれば、保護される。例えば、無能な二代目社長。
家父長制によって保護されない立場にあり、かつ、生産力のない人間や、生活力のない人間が、排除される。無産階級であり、家族の庇護も期待できず、社会の支援もない。原始社会であれば、食料確保ができなくて、あるいは危険から身を守ることができなくて、命が保てない人たち。
それは刑法による刑務所への収監ではないが、倫理的咎めにより、類似の状況に置かれることになる。社会は倫理的に咎めるし、自分も自身を倫理的に咎める。

このようにして、社会によって構成された病名、治療が存在する。

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