「日本宗教における非統合と代替物(国家・我慢・役割)」
なぜそうなったのかを精神構造と制度の両面から。
日本宗教における非統合と代替物
――国家・我慢・役割という疑似宗教装置
聖書が示していたのは、シゾフレニー的超越、バイポーラー的集団原理、強迫的秩序化が、緊張を保ったまま一つのテクストに編み込まれているという事実であった。それに対して、日本の宗教的状況を特徴づけるのは、これら三つの心性が統合されないまま、分断的に存在しているという点である。
日本に宗教が存在しなかったわけではない。むしろ、宗教的要素は過剰なほどに散在している。しかしそれらは、統一的な意味装置へと結晶することなく、別々の領域で機能してきた。
1.シゾフレニー的超越の弱体化――神が語らない社会
日本の宗教において、超越者が個人に直接語りかけるという構造は、きわめて弱い。神仏は存在するが、人格的に呼びかける存在ではない。神は「そこにいる」ものであり、「語る」ものではない。
この点で、日本の神道的・アニミズム的世界観は、シゾフレニー的心性を制度的に育てない。幻聴や啓示は、宗教的使命へと昇華されることなく、個人的な異常体験として周縁化されやすい。
結果として、日本社会には、超越から使命を受け取る主体がほとんど成立しない。預言者は現れず、現れたとしても危険人物として隔離される。神は沈黙し、個人は呼びかけを受け取らない。
これは平穏さをもたらす一方で、極限状況において「なぜ生きるのか」「なぜ耐えるのか」を問う言葉が立ち上がらない原因ともなる。
2.バイポーラー的集団原理の世俗化――国家への転位
一方で、日本社会には、強力なバイポーラー的集団原理が存在してきた。ただしそれは、宗教ではなく国家という形で制度化された。
明治以降の日本では、本来宗教が担うはずだった集団的意味付与の機能が、国家と天皇制に集約された。「国のために死ぬ」「天皇のために生きる」という語彙は、宗教的超越を欠いたまま、集団的誇大と献身を動員する装置として機能した。
しかしこの構造は、聖書的宗教と決定的に異なる。そこには、超越的他者との緊張関係がない。国家は人間が作った制度でありながら、絶対化され、問い返されることがない。そのため、バイポーラー的高揚は一気に過熱し、破局に至るまで止まらない。
敗戦は、この疑似宗教の崩壊であった。しかし崩壊後、日本社会は宗教へと回帰することはなかった。代わりに、意味の空白が生じた。
3.強迫性の偏在――儀礼はあるが意味がない
日本宗教において最も顕著なのは、強迫的要素の遍在である。年中行事、形式、作法、礼儀、反復される儀礼。これらは豊富に存在する。
しかし、それらは超越的意味や集団的物語と強く結びついていない。葬儀は行われるが、死の意味は語られない。初詣は行われるが、生き方は問われない。反復は安心を与えるが、方向を与えない。
強迫性が、シゾフレニー的超越やバイポーラー的集団原理と切り離された結果、宗教は「雰囲気」と「習慣」に還元される。秩序はあるが、意味がない。形式はあるが、言葉がない。
4.代替物としての「我慢」と「役割」
この非統合状態の中で、日本社会が編み出したのが、「我慢」と「役割」という代替原理である。
宗教が「なぜ耐えるのか」を語らない代わりに、日本社会は「耐えられる人」を称揚する。意味は与えられないが、役割は与えられる。個人は、自分が何者であるかではなく、何を果たすかによって評価される。
この構造は、平時にはきわめて安定的である。誰も深く問わず、誰も深く語らない。しかし、役割を果たせなくなった瞬間、我慢が破綻した瞬間、個人を支える言語的枠組みは消失する。
過労死、ひきこもり、災害後の孤立死が示すのは、この断絶である。そこでは苦しみが存在するにもかかわらず、それを意味づけ、語り直す共同体的言葉が存在しない。宗教の不在は、まさにこの地点で露呈する。
5.非統合社会としての日本
以上をまとめるなら、日本は無神論社会なのではない。むしろ、日本は神を制度化できなかった社会である。
超越は希薄化され、集団原理は国家へと転位し、強迫的形式だけが残った。その結果、宗教的心性は分断されたまま、人々の生活に散在している。
この非統合は、日本社会の弱さであると同時に、ある種の柔軟さでもあった。しかし、意味が根本から問われる局面において、その脆弱さは否応なく露呈する。
次に問われるべきなのは、宗教を復活させることではない。むしろ、意味を再び人間の言葉で編み直す装置を、どこに見出すのかという問題である。
