臨床の視線 壊れたときに何が起きるのか


壊れたときに何が起きるのか

――過労死・ひきこもり・孤立死という臨床的風景

「耐えられる人」は、日本社会において最も評価される主体である。与えられた役割を黙って引き受け、空気を乱さず、弱音を吐かず、期待に応え続ける人。そこには信仰はないが、倫理がある。教義はないが、規範がある。

しかし、この主体は「耐えること」それ自体を目的としているわけではない。耐えることによって、どこかで報われるという暗黙の前提が存在している。問題は、その報いが意味としても、言葉としても、制度としても保証されていない点にある。

1.過労死――役割が人格を上書きするとき

臨床の場で出会う過労死事例に共通するのは、強い使命感や誇大な自己評価ではない。むしろ、「自分がやらなければ回らない」「迷惑をかけてはいけない」という、きわめて控えめで社会適応的な思考である。

ここには、バイポーラー的な高揚はほとんどない。あるのは、役割への過剰な同一化である。人は「働いている自分」ではなく、「働いていなければならない自分」へと変形していく。

疲労は、身体症状として現れる前に、意味の次元で切断される。「なぜここまで耐えているのか」という問いが浮かばないまま、耐え続ける。その結果、死はしばしば突然に、そして静かに訪れる。

過労死が宗教の不在を露呈するのは、この点である。死が「殉教」にも「犠牲」にもならず、語られる言葉を持たない。死後に残るのは、責任の所在をめぐる事務的な議論だけである。

2.ひきこもり――役割から降りた後の真空

ひきこもりは、過労死とは対照的に、生き延びた結果として現れる破綻である。役割から降りることに成功した人間が、その後、何者として存在すればよいのか分からなくなった状態とも言える。

臨床的に見ると、ひきこもりの多くは重篤な精神病理を伴わない。幻聴も妄想もない。むしろ過剰に現実的で、過剰に自己を相対化している。「自分には価値がない」「社会に出る資格がない」という思考は、歪んではいるが、社会の評価軸を内面化した結果でもある。

宗教が存在する社会であれば、役割を失った個人は、罪、悔い改め、修行、回復といった物語の中に再配置される。しかし日本では、そのための語彙が乏しい。結果として、時間だけが停止する。

ひきこもりは怠惰ではない。それは、意味を与えられないまま生き延びることの、極限的な形態である。

3.災害後の孤立死――「絆」言説の崩壊点

大規模災害の直後、日本社会では必ず「絆」という言葉が語られる。それは一時的に、宗教的連帯に近い熱を帯びる。しかし、この言葉は持続しない。

時間が経過し、復興が進むにつれて、共同体は再び日常へと回帰する。その過程で、役割を失った高齢者、孤立した被災者は、静かに取り残される。孤立死は、その最終的な表現である。

ここで明らかになるのは、「絆」が意味を語る言葉ではなく、動員のスローガンであったという事実である。死に対して語るべき言葉は、依然として存在しない。

4.臨床が直面する空白

臨床の場で繰り返し直面するのは、「何のために生きているのか分からない」「なぜ自分だけが苦しいのか分からない」という問いである。これらは、診断名では処理できない。症状の問題ではなく、意味の問題だからである。

支持的精神療法が行っているのは、決して新しい価値観の注入ではない。患者が断片的に持っている経験、感情、記憶を、言葉として結び直す作業である。そこでは医師やセラピストが答えを与えることはない。ただ、耐えてきた時間が、語られるに値するものとして扱われる。

このプロセスは、宗教的告解や説教に似ている。しかし決定的に異なるのは、超越者が存在しない点である。意味は上から与えられるのではなく、人間同士の関係の中で、暫定的に編まれる。

5.壊れた後に残る問い

過労死、ひきこもり、孤立死は、個別の社会問題ではない。それらは、日本社会が長らく先送りにしてきた問い――「人は、意味なしに耐え続けることができるのか」という問い――の臨床的帰結である。

宗教は戻らない。しかし、意味を扱う必要性は消えない。壊れた後に初めて立ち上がるこの問いに、どのような言葉で応答するのか。その試み自体が、すでに一つの倫理であり、現代的な回復モデルの萌芽である。


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