意味を再び編む装置としての臨床
臨床の現場において、治療者が最初に直面するのは「症状」ではない。
むしろそれ以前に、意味が失われた状態に直面する。
患者はしばしば、こう語る。
- なぜ自分がこうなったのか分からない
- どこまで耐えればよかったのか分からない
- 何を信じて生きてきたのか、もう分からない
ここで失われているのは、単なる希望や意欲ではない。
それは、「この出来事を、どの物語の中に置けばよいのか」という語りの枠組みそのものである。
かつて宗教は、この役割を担っていた。
苦難は試練であり、罰であり、使命であり、贖罪であり、あるいは神秘であった。
いずれにせよ、苦しみは意味を与えられる出来事として回収されていた。
しかし現代日本において、臨床に来る多くの人々は、
すでにそのような語彙を持たない。
彼らは「信仰を失った人」ではない。
むしろ最初から、信仰という形式を与えられてこなかった人である。
その代わりに彼らを支えていたのは、
- 我慢すればいつか報われるという暗黙の了解
- 役割を果たしていれば存在が許されるという秩序
- 空気を壊さなければ居場所が保たれるという感覚
であった。
支持的精神療法が向き合うのは、
これらがすべて機能しなくなった後の地点である。
過労死の手前で立ち止まった人、
役割を失い引きこもった人、
災害後に誰ともつながれなくなった人。
彼らは「弱い人」ではない。
むしろ、耐えすぎた人である。
臨床は、ここで何をするのか。
答えは明確である。
臨床は、新しい教義を与えない。
正解の人生観を教えない。
「あなたはこう生きるべきだ」とは言わない。
その代わりに、臨床は、
その人が語れなかった出来事を、人間の言葉で語り直す場を提供する。
- あのとき、何が起きていたのか
- 何を引き受け、何を引き受けさせられていたのか
- どこで限界を超えてしまったのか
それを、評価せず、急がず、結論を出さずに、
一緒に言葉にしていく。
支持的精神療法が「支持的」であるとは、
楽にしてあげることではない。
励ますことでもない。
意味が崩壊した場所に、語りの足場を作ることである。
この意味で、臨床は宗教の代替ではない。
しかし、宗教が担っていた機能の一部――
すなわち、
「苦しみを、沈黙ではなく、物語として回収する機能」
を、最小限の形で引き受けている。
宗教は戻らない。
少なくとも、かつての形では戻らない。
だが、意味を編み直す作業は、
人間が生きる限り、どこかで必ず必要になる。
臨床とは、
神の言葉の代わりに、
制度の言葉の代わりに、
人間が人間に向かって、意味を語り直す最後の場所なのかもしれない。
