特定されないよう十分に抽象化した一人の患者像。
彼は、いま働いていない
――ある患者の回復について
彼は四十代の男性だ。
診断名は特別なものではない。長く続く抑うつと不安、時折強まる身体症状。
大きな再発や入院歴があるわけではないが、安定して働き続けられた時期も、もう何年もない。
診察室では、彼はいつもきちんと椅子に座る。
受け答えも丁寧で、医師の話を遮らない。
「調子はどうですか」と聞くと、少し考えてからこう言う。
「悪くはないです。前よりは」
眠れている。
服薬も守れている。
希死念慮もない。
生活は縮小されているが、破綻してはいない。
治療目標だけを見れば、彼は「安定している患者」だ。
けれど話題が就労に触れた瞬間、空気が変わる。
「そろそろ、就労移行を考えたほうがいいんでしょうか」
彼は、こちらの顔色をうかがうように言う。
働くことが嫌なわけではない。
むしろ「働けない自分」を、強く恥じている。
周囲から直接責められているわけでもない。
ただ、社会の時間から取り残されている感覚が、彼を追い詰めている。
以前、就労移行支援に通ったことがある。
最初の数週間は、真面目に通所した。
生活リズムを整え、課題もこなした。
だが、次第に眠れなくなった。
日曜の夜になると、動悸が始まる。
「また一週間が始まる」というだけで、身体が固まった。
通所を休みがちになり、
「この程度でつらいのはおかしいのではないか」
そんな自己責めが強くなって、症状は悪化した。
結果的に、彼は就労支援から離れ、
また診察室に戻ってきた。
いま、彼は働いていない。
日中は家で過ごし、散歩をし、簡単な家事をする。
社会的に見れば、ほとんど何もしていない生活だ。
しかし臨床的には、この「何もしていない時間」が、彼を支えている。
支持的精神療法の立場からすれば、
彼に必要なのは「次の目標」ではない。
これ以上崩れない状態を、丁寧に守ることだ。
「いまは、働かなくていいと思います」
そう伝えると、彼は一瞬、戸惑った表情を見せる。
そして、少しだけ肩の力が抜ける。
森田療法的に言えば、
彼はいま、「できない自分」を排除せずに生活している段階にある。
症状を克服したわけではない。
だが、症状と闘うこともやめている。
回復モデルの図表に当てはめれば、
彼はいつまでも途中に留まっている患者だろう。
社会的リカバリーは達成されていない。
それでも彼は、生き延びている。
以前よりも、静かに、壊れにくく。
この患者を「回復していない」と呼ぶなら、
回復という言葉は、誰のためのものなのだろうか。
診察室で実感するのは、
回復とは前進だけで測れるものではない、という事実だ。
止まること。
縮めること。
それ以上、壊れないこと。
それらを肯定できる臨床がなければ、
回復モデルは、静かに患者を追い詰めていく。
彼はいま、働いていない。
だが少なくとも、壊れずにここにいる。
臨床にとって、その事実は軽くない。
回復モデルが増えるほど、回復は遠ざかる?
近年の精神医療では、「回復(リカバリー)」という言葉が、以前にも増して細かく分解されるようになった。
症状からのリカバリー。
個人的リカバリー。
社会的リカバリー、すなわち就労や社会参加。
それぞれは、たしかにもっともらしい。
症状が軽くなることも大切だし、その人なりの意味や自己感を取り戻すことも重要だ。社会との接点を回復することが、生活の支えになる場合も多い。
ただ、これらが「段階」や「評価軸」として並べられたとき、別の風景が立ち上がってくる。
――あなたは、どこまで回復しましたか。
――まだ次が残っていますね。
そんな無言の問いかけが、制度や支援の隙間から滲み出してくる。
回復モデルが洗練されるほど、回復は「到達すべき地点」になりやすい。
そして地点が増えれば増えるほど、辿り着けない人の居場所は狭くなる。
このモデルでうまく回復できる人がいるのは事実だ。
症状が安定し、自己理解が深まり、仕事に復帰していく人たちがいる。
それ自体を否定する必要はない。
しかし同時に、回復できない人も確実に存在する。
あるいは、回復しようとすればするほど、かえって疲弊してしまう人たちがいる。
症状は完全には消えない。
「自分らしさ」も見つからない。
働くことを考えるだけで、心身が固まってしまう。
そうした人にとって、細分化された回復モデルは、支えというよりも「静かな圧力」になる。
「あなたは、まだ途中です」
「まだ十分ではありません」
そんな評価が、誰にも明示されないまま、空気のように漂う。
回復という言葉が、本来もっていたはずの柔らかさ――
生き延びること、今日をやり過ごすこと、壊れずに在ること――
そうした意味合いは、次第に後景に退いていく。
回復できない人にとって、もっとも必要なのは「次の課題」ではない。
むしろ、「これ以上、何者にもならなくてよい」という安らぎかもしれない。
何かを達成しなくても、
社会的に説明できる状態でなくても、
症状が残ったままでも、
ここに居ていい。
回復モデルが問い直されるべきなのは、その有効性ではなく、
「回復できない時間を、どれだけ包み込めるか」という点なのだと思う。
回復を促す医療が必要なのと同じくらい、
回復を急がせない医療も、また必要なのではないだろうか。
回復モデルが、患者を休ませなくなったとき
診察室で、患者さんの話を聞いていると、ときどき奇妙な瞬間が訪れる。
症状は決して軽くない。生活も不安定だ。けれどその人は、どこか申し訳なさそうにこう言う。
「まだ働けていないんです」
「リカバリーの途中なんですよね」
こちらが評価を下したわけではない。
しかし、患者さん自身が、すでに“回復の物差し”を内面化している。
近年の回復モデルは、症状からのリカバリー、個人的リカバリー、社会的リカバリーへと、きれいな階段状に整理されている。
理論としては整っている。支援の言葉としても使いやすい。
だが臨床の現場では、その整然さが、しばしば別の顔を見せる。
社会的リカバリー――とりわけ「就労」が、いつの間にか回復のゴールとして扱われるようになった。
働けているか。
何時間働けているか。
どれだけ安定して続いているか。
その問いが、患者さんの苦しみを測る物差しになってしまう。
働けない理由は、たいてい十分すぎるほどある。
朝起きられない。人と会うと症状が悪化する。集中が続かない。
それでも「就労」は、希望であると同時に、義務のように語られる。
「無理のない形で」
「少しずつでいいから」
そう前置きされながらも、前提として「目指すべき方向」は一つしかない。
進めない人は、立ち止まっているのではなく、「遅れている」存在になる。
臨床で実際に起きているのは、回復が患者を支えるのではなく、
回復という概念が患者を追い立ててしまう場面だ。
就労リカバリーは、ときに症状そのものよりも残酷である。
症状は「病気のせい」にできる。
しかし働けないことは、「努力不足」や「意欲の欠如」にすり替えられやすい。
患者さんは、治る前に、すでに疲弊している。
休むために医療につながったはずなのに、
医療の言葉によって、再び走ることを求められる。
回復できる人にとって、このモデルは確かに有効だ。
就労は自尊心を回復させ、生活を安定させる。
その現実も否定できない。
だが、回復できない人、あるいは「回復しないまま生き続ける人」にとって、
このモデルは、居場所を与えない。
今日も何も成し遂げていない。
明日も働けないかもしれない。
それでも生きている。
そうした時間を、回復の失敗として扱わない視点が、臨床には必要だ。
もしかすると、回復とは「何かができるようになること」ではなく、
「できないままでも、壊れずに在れること」なのかもしれない。
診察室で必要なのは、次の目標を提示することではない。
「いまは、ここでいい」と、一度時間を止めること。
回復を促す医療と同じくらい、
回復を棚上げにする医療も、また臨床の技術なのだと思う。
回復が「就労」に吸い寄せられていくとき
――治療目標と生活目標の混線について
日本の精神医療では、「回復」という言葉が、いつの間にか就労支援制度と強く結びつくようになった。
就労移行支援、就労継続支援A型・B型。制度としては整備され、選択肢も増えた。
けれど臨床の現場にいると、そこに微妙なズレが生じているのを感じる。
本来、就労支援制度は「働きたい人を支える」ためのものだったはずだ。
しかし実際には、「回復しているなら、次は就労」という暗黙の流れができあがっている。
診察室で、患者さんがこう言う場面は少なくない。
「主治医としては、就労移行に行ったほうがいいですよね」
「まだ生活が整っていない気もするんですが……」
ここで起きているのは、「治療目標」と「生活目標」の混線だ。
治療目標とは、本来、症状を悪化させず、生活を破綻させず、
少なくとも“これ以上壊れない”状態を保つことだ。
一方、生活目標は、その人がどう生きたいか、どんなリズムで日々を送りたいか、という話である。
ところが就労が前景化すると、この二つが同一視されてしまう。
働ける=治っている。
働けない=まだ治っていない。
この単純化は、臨床的にはかなり危うい。
就労移行や就労継続の場で、体調を崩す患者さんは珍しくない。
通所という「軽い就労」のはずが、生活全体を圧迫し、
睡眠が乱れ、症状が再燃し、結局また医療に戻ってくる。
制度は「次のステップ」を用意しているが、
患者さんの身体や心は、必ずしも階段状には回復しない。
支持的精神療法の立場から見ると、このズレはよりはっきりする。
支持的とは、変化を促さないことではない。
変化に耐えられない時期を、無理に動かさないことだ。
「いまは働かないほうがいい」
「生活を守ること自体が治療です」
そう言い切ることは、制度が前提とする回復像からは、しばしば外れてしまう。
しかし臨床的には、その判断こそが回復を支えることがある。
症状を消すことよりも、「症状があっても生活を営む」ことを重視することもある。
ただしそれは、「できないことを無理にさせる」という意味ではない。
森田療法でいう「あるがまま」は、
不安や症状を抱えたまま、可能な範囲の生活にとどまることでもある。
就労が無理なら、生活の縮小を引き受けることも、立派な治療的選択だ。
現在の回復モデルと就労支援制度は、
「拡張する生活」を前提にしすぎているように思う。
広げられない生活、縮めたほうが安定する生活が、最初から想定されていない。
その結果、「働かない選択」は、
本人の意欲や回復の問題として処理されやすくなる。
だが臨床で守るべきなのは、
就労の達成だけではなく、むしろ生活の破綻を防ぐことである。
今日も働けなかった。
それでも眠れた。
それでも通院できた。
それでも生き延びている。
この「それでも」を積み重ねる時間を、
回復の失敗と呼ばない医療が、今こそ必要なのではないか。
回復を急がせる制度と、回復を待つ臨床。
その緊張関係のなかで、精神医療は本来の役割を問い直されている。
それはそう、確かにそうなんだが、でも、そうでばかりもない。
勤勉就労の倫理は確かに大切だ。
働かざる者食うべからず、と言われればそれも確かにそういう面もある。
しかしそればかりではないことも確かであって、整理は難しい。
何が難しいって、いろいろと難しい。
