なぜこんなに整理しにくいのか
それは確かにそうだが、そうでばかりもない
――勤勉就労の倫理が、簡単に手放せない理由
ここまで述べてきたことについて、多くの人はこう感じるのではないだろうか。
「それはそうだ。確かにそうなんだが、でも、そうでばかりもない」
就労リカバリーが患者を追い詰めることがある。
回復できない人に、安らぎのない時間を強いる。
臨床の現場に立てば、その現実は否定しようがない。
しかし同時に、勤勉就労の倫理――
働くことが人を支え、生活を成り立たせ、尊厳を与えるという感覚も、また確かに存在している。
「働かざる者食うべからず」
この言葉は乱暴に聞こえるが、
裏返せば、「働くことが社会への参加である」という感覚を含んでいる。
働くことによって、居場所を得る。
役割を持つ。
自分が社会の一部であると感じる。
臨床でも、就労が回復を大きく後押しする場面は、確かにある。
仕事が生活リズムを整え、
人との関係を回復させ、
「自分はまだ役に立てる」という感覚を取り戻す。
だからこそ、就労の倫理は簡単には否定できない。
むしろ、完全に否定してしまうと、
回復のための重要な資源を一つ失ってしまう。
では、何がこんなにも整理を難しくしているのか。
第一に難しいのは、就労が「手段」なのか「目的」なのかが曖昧なことだ。
本来、就労は生活を支えるための手段である。
ところが回復モデルや制度の文脈では、就労そのものが目的化しやすい。
目的になった瞬間、
「働けない状態」は失敗や停滞として評価される。
ここで臨床の時間感覚と、制度の時間感覚が衝突する。
第二に、働くことが「回復を促す力」と「症状を悪化させる力」を同時に持っている点が厄介だ。
同じ就労でも、
ある人には薬になり、
別の人には毒になる。
しかもその差は、外からは見えにくい。
意欲があるように見える人ほど、無理をして崩れることもある。
この不確実性が、画一的な判断を不可能にする。
第三に、勤勉就労の倫理が、社会的正しさとして強く共有されているという事実がある。
働くことを重んじる価値観は、日本社会に深く根付いている。
医療者も、患者も、その外に立つことは難しい。
だから診察室でも、
「働けないこと」そのものより、
「働けない自分をどう評価するか」が、患者を苦しめる。
ここまでくると、問題は単純な是非論ではなくなる。
就労を重視しすぎれば、人を壊す。
就労を軽視しすぎれば、人を孤立させる。
どちらも、確かに起きる。
整理が難しいのは、
私たちが実は「二つの正しさ」のあいだで引き裂かれているからだ。
一つは、
「人は働くことで支えられる」という正しさ。
もう一つは、
「人は働けなくても守られなければならない」という正しさ。
臨床とは、そのどちらかを選ぶことではない。
むしろ、その緊張関係を引き受け続ける営みなのだと思う。
だから結論は、どうしても歯切れが悪くなる。
「いろいろと難しい」という感想に、落ち着いてしまう。
だが、その曖昧さこそが、
現場で患者と向き合うときに失ってはいけない感覚なのかもしれない。
白黒をつけないこと。
急いで答えを出さないこと。
働くことの価値も、働けない時間の価値も、同時に手放さないこと。
臨床が引き受けているのは、
その「宙づりの状態」そのものなのだろう。
