現代の精神保健福祉、ひいては「人間はどう生きるべきか」という倫理学や社会学の根幹に触れる問い。
リカバリー(回復)という言葉は、かつては「病気が治ること(臨床的リカバリー)」のみを指していましたが、現在は「たとえ症状があっても自分らしく生きること(個人的リカバリー)」や「社会の中で役割を持つこと(社会的リカバリー)」へと拡大されました。
この概念の拡張は、一見すると救いのように見えますが、実際には患者を多方面から評価し、全人格的な変容を迫る「新たな抑圧」として機能している側面は否定できません。
以下に、この問題を「リカバリーの多次元化がもたらす功罪」「勤勉倫理と資本主義の要請」「『回復できない権利』と安らぎの哲学」という切り口から、整理します。
リカバリーのパラドックス:多次元化する「回復」と、奪われる「安らぎ」に関する考察
序論:リカバリーという福音の変質
1980年代以降、精神保健の分野で主流となった「リカバリー」の概念は、もともとは当事者運動から生まれた「希望」の言葉であった。従来の医学モデルが「症状の消失(寛解)」のみを目標とし、それが叶わない患者を「慢性期」という名の停滞に追いやったことへの反旗として、「病気と共に、豊かに生きる」という個人的リカバリーの理念は、多くの人々に人間としての尊厳を取り戻させた。
しかし、21世紀に入り、このリカバリーの概念は細分化・構造化され、公的な支援施策や評価指標に組み込まれるようになった。現在では主に以下の三つの次元で語られる。
- 症状からのリカバリー(臨床的リカバリー): 幻覚や妄想、抑うつなどの消失。
- 個人的リカバリー: 自己決定、希望、アイデンティティの再構築。
- 社会的リカバリー: 就労、経済的自立、社会参加。
この細分化は、支援の個別化を可能にした一方で、患者に対して「症状を抑えるだけでなく、前向きな精神性を持ち、かつ社会の役に立つ労働力であれ」という、かつてないほど高いハードルを課すこととなった。本稿では、この「リカバリーの多次元化」がなぜ患者を追い詰めるのか、そして「働かざる者食うべからず」という倫理をどう乗り越えるべきかについて論じる。
第一章:個人的リカバリーの「強制」という暴力
個人的リカバリーは、「人生の主導権を取り戻す」という美名の下で語られる。しかし、これが支援の「目標」に設定された瞬間、それは患者の内面に対する強制へと変貌する。
1. 「希望」の義務化
個人的リカバリーにおいて重要視されるのは「希望」や「前向きな姿勢」である。しかし、精神的な困難を抱える者にとって、絶望することもまた一つの切実な現実である。支援者がリカバリー指標を用いて「希望を持てているか」を評価することは、患者に対して「正しく前向きであること」を強要する心理的な支配(メンタル・ガバナンス)になりかねない。
2. 内面の数値化
リカバリーが尺度化(CHIMEモデルなど)されることで、個人の主観的な人生の歩みまでが「スコア」として管理されるようになった。これにより、回復できない自分を感じている患者は、単に「病気が治らない」だけでなく、「人間としての成長(リカバリー)に失敗している」という二重の敗北感を味わうことになる。これは「安らぎ」とは正反対の、絶え間ない自己改善の要請である。
第二章:社会的リカバリーと新自由主義の影
社会的リカバリー、とりわけ「就労」がリカバリーの最終目標とされる背景には、現代社会の経済的論理が強く働いている。
1. 労働と市民権の結合
現代社会において、就労は単なる金銭獲得の手段ではなく、「一人前の市民」であるための証明書となっている。社会的リカバリーが強調されるほど、「働いていない状態」は「未回復の状態」と定義される。ここでは、障害福祉が「生産性の向上」を目指すための投資、あるいは労働市場への復帰を促すための装置として機能している。
2. 「投資としての支援」の罠
福祉予算が限られる中で、行政は「自立(=就労)につながる支援」に重点を置く。その結果、就労の見込みがある層には手厚い支援が行われる一方で、就労が困難な層や、静かに療養することを望む層は、「リカバリーの意欲がない」と見なされ、支援の優先順位を下げられたり、無言の圧力を受けたりすることになる。これが、ご指摘の「回復できない人にはますます安らぎのない状況」の構造的要因である。
第三章:「勤勉就労の倫理」の正体と限界
「働かざる者食うべからず」という言葉は、私たちの深層心理に根深く突き刺さっている。この論理をどう整理すべきか。
1. 倫理の歴史的背景
この言葉の源流は、新約聖書のテサロニケの信徒への手紙にあるとされるが、近代においてはマックス・ウェーバーが指摘した「プロテスタンティズムの倫理」と結びつき、資本主義を支える精神的支柱となった。しかし、この倫理はもともと「五体満足で働ける能力があるのに、怠惰ゆえに働かない者」を戒めるものであった。
2. 現代における「不当な適用」
現代の複雑な社会において、精神疾患や障害によって「働けない」状況にある人にこの倫理を適用することは、カテゴリー・ミステイク(カテゴリーの誤用)である。病気や障害は個人の怠惰(意志の問題)ではなく、生存の条件(存在の問題)であるからだ。
しかし、現代社会は「意志」と「能力」の境界線を曖昧にしている。リカバリーモデルが「本人の主体性」を強調しすぎるがゆえに、「働けないのは、まだリカバリー(主体性の回復)が足りないからだ」という、本人を責める論理にすり替えられてしまうのである。
第四章:「回復しない権利」と「安らぎ」の復権
私たちは、リカバリーの対抗軸として「回復しなくてもよい権利」を再定義しなければならない。
1. ネガティブ・ケイパビリティの重要性
詩人ジョン・キーツが提唱し、精神分析の分野でも重視される「ネガティブ・ケイパビリティ(持ちこたえる力)」とは、どうにもならない事態や、解決のつかない状況を、性急に意味づけしたり解決したりせずに、不確かさの中に留まり続ける能力のことである。
多次元化されたリカバリーモデルは、この「不確かさの中にとどまる」ことを許さない。「早く原因を突き止め、対策を立て、次の段階へ進め」と急き立てる。しかし、真の「安らぎ」は、何者かになろうとする努力(Doing)を止め、ただ存在すること(Being)が許される瞬間にのみ訪れる。
2. 生の多義性:生産性なき生の肯定
人間は、社会に価値を提供(生産)するから尊いのではない。ただ生きていること、そのこと自体に固有の価値があるという「生存権」の原点に立ち返る必要がある。
社会的リカバリーが「労働」を重視するなら、私たちは「贈与としての生」を対置すべきだ。病者がそこに存在し、周囲がそれを支える過程で生まれる対話やケアの相互作用は、経済的数値には表れないが、社会の豊かさを構成する重要な要素である。
第五章:今後のリカバリー論への提言 ―「包括的リカバリー」から「安らぎの保障」へ
リカバリーモデルを完全に否定する必要はない。しかし、それを「達成すべきノルマ」から「選択可能なリソース」へと引き戻さなければならない。
1. 「社会的リカバリー」の再定義
社会的リカバリーのゴールを「就労」のみに限定せず、「孤独ではないこと」「誰かに受け入れられていること」へと広げるべきである。働いていようがいまいが、近所の公園で会釈を交わす人がいる、図書館に通える、といった「緩やかなつながり」こそが、本来の社会的回復であるはずだ。
2. 「安らぎ」を評価指標に
支援の現場において、「就労率」や「症状の改善」と同じくらい、「その人がどれだけ安心して日々を過ごせているか(主観的な安らぎ)」を最高の指標として置くべきである。もし「リカバリーのための努力」が、その人の「安らぎ」を破壊しているならば、その支援は本末転倒である。
3. 制度的保障としてのベーシックインカム的発想
「働かざる者食うべからず」の呪縛を解くには、生存の条件を労働から切り離す必要がある。精神障害を持つ人々が、就労への圧力を感じることなく、自分のペースで生きていくための経済的基盤(障害年金の充実など)を整えることは、単なる福祉施策ではなく、人間としての「安らぎ」を守るための倫理的基盤である。
結論:整理のつかない「生」を共に生きる
「リカバリー」という言葉が、患者を追い詰める凶器となっている現状は、現代社会の「効率」と「自己責任」への過度な傾倒を映し出している。症状、精神、社会性という三方面からの包囲網は、逃げ場のない息苦しさを生んでいる。
しかし、整理のつかない複雑な人生、回復しきれない傷跡、そして働けないまま過ごす静かな時間。これらもまた、人間らしい生の一側面である。私たちは、「勤勉就労の倫理」を認めつつも、それが適用されない「例外の聖域」を社会の中に確保しなければならない。
真のリカバリーとは、社会が定義する「正常さ」や「有能さ」に近づくことではない。たとえ病があっても、働けなくても、自分の存在が誰にも脅かされず、静かな「安らぎ」の中で今日を終えられること。その「不完全なままの肯定」こそが、私たちが目指すべき地平ではないだろうか。
「働かざる者、食うべからず」という言葉の裏に、「されど、生くる者、死なすべからず」という慈悲の倫理を置くこと。この両端の緊張関係を維持し続けることが、これからの精神保健、そして私たちの社会に求められている論理的な誠実さであると考える。
