「勤勉就労倫理が弱まった」のではなく、姿を変えて、むしろ内面化が強化された。
ウェーバー以後を、福祉国家 → 新自由主義という二段階で整理します。
ウェーバー以後、勤勉就労倫理はどう変質したのか
――福祉国家から新自由主義へ
1.福祉国家は「勤勉倫理」を否定しなかった
まず重要なのは、戦後の福祉国家は、
勤勉就労倫理を捨てたわけではない、という点だ。
失業保険、生活保障、医療保障。
これらは一見、「働けない人を守る制度」に見える。
しかし思想史的に見ると、福祉国家はこう言い換えられる。
人は、原則として働く存在である。
ただし、働けない時期があることを、社会が一時的に引き受ける。
ここでは、勤勉就労倫理は前提として温存されている。
福祉は「勤勉倫理の例外措置」として設計された。
そのため福祉国家の制度は、
常に「復帰」を志向する。
- 病気は治るもの
- 失業は一時的なもの
- 回復すれば、再び労働へ戻る
この構造自体は、精神医療の回復モデルと非常に親和的だ。
つまり福祉国家は、
「働かなくていい社会」を作ったのではなく、
「働けない期間を猶予する社会」を作ったにすぎない。
2.福祉国家が生んだ、もう一つの圧力
ところが、この仕組みには副作用があった。
福祉が制度化されるほど、
「本当に働けないのか?」という問いが強まる。
なぜなら、
支える側(社会)は、
支えられる理由を確認せざるを得なくなるからだ。
ここで登場するのが、
- 診断
- 評価
- 能力判定
- 回復可能性の見積もり
精神医療は、
「働けないことを証明する装置」としての役割も担い始める。
この時点で、
勤勉就労倫理は外からの強制ではなく、
制度を通じた審査の倫理へと変質する。
3.新自由主義は、倫理を「自己責任」に変えた
1970年代以降、福祉国家が行き詰まると、
勤勉就労倫理は、さらに別の形をとる。
新自由主義である。
新自由主義は、
「働け」という命令を、あまり表では言わない。
代わりに、こう語る。
選択は自由です。
ただし、結果は自己責任です。
ここで勤勉就労倫理は、
外的な規範から、内的な自己評価基準へと移行する。
働けないのは、
能力が足りないから。
努力が足りないから。
選択を誤ったから。
誰かに責められなくても、
人は自分を責めるようになる。
精神医療の現場で見られる、
強い自己否定や罪悪感は、
この倫理の内面化と無関係ではない。
4.「回復モデル」は、新自由主義と相性が良すぎる
ここで、回復モデルに戻る。
回復モデルは、本来、
「回復は人それぞれ」という多様性を掲げていた。
だが新自由主義の文脈では、
それはこう翻訳されてしまう。
回復の形は自由です。
ただし、回復できるかどうかはあなた次第です。
症状の管理。
セルフケア。
レジリエンス。
自己決定。
これらは一見、支援的な言葉だが、
同時に「責任の所在」を個人に集約する。
就労リカバリーは、
その最終確認装置になる。
働けていれば、回復は成功。
働けていなければ、まだ努力が足りない。
5.何が一番、臨床を苦しくしているのか
ウェーバー以後の変質で、
一番厄介なのはここだ。
勤勉就労倫理は、
もはや誰かが押しつけているわけではない。
制度と自己評価を通じて、
静かに作動している。
だから否定しにくい。
だから整理しにくい。
だから、臨床家自身も引き裂かれる。
働くことで救われる人がいる。
働けないことで守られる人もいる。
その両方が真実である以上、
倫理を一つにまとめることはできない。
6.臨床ができる、せめてもの位置取り
思想史的に見れば、
勤勉就労倫理は「時代的に生成されたもの」であり、
人間の本質ではない。
それを知っているだけでも、
臨床での態度は変わる。
- この人に、いま効いている倫理なのか
- それとも、この人を壊している倫理なのか
そう問い直す余地が生まれる。
福祉国家も、新自由主義も、
「働く人間」を前提にしている。
だが臨床は、ときに
「働けないまま生きる人間」を引き受けなければならない。
その緊張のなかに、
精神医療の倫理的核心がある。
