躁状態という「社会で何度も起きてきた心のモード」
――災害・戦争・SNS炎上に共通するもの
精神科で「躁状態」という言葉を使うとき、多くの人はそれを「特別な病気の症状」だと考える。
だが実は、躁状態とよく似た心の動きは、私たちの社会の中で、何度も、繰り返し現れてきた。
それは、
大きな災害の直後であり、
戦争の初期であり、
そして、SNSが激しく炎上している最中でもある。
災害の直後に現れる「不思議な高揚」
大地震や大事故の直後、ニュース映像に映る人々の中に、どこか現実離れした表情を見ることがある。
- 寝ていないはずなのに妙に元気
- よくしゃべる
- 「自分が何とかしなければ」という使命感
- 危険をあまり感じていない様子
もちろん、それは異常ではない。
極限状況で人が生き延びるための、一時的な心のスイッチでもある。
だが、この状態は、精神科でいう躁状態と、構造的によく似ている。
躁状態とは「元気」ではない
躁状態というと、「テンションが高い」「調子がいい」というイメージを持たれがちだが、それは正確ではない。
躁状態の本質は、
現実との距離感が変わること
にある。
- 自分はもっとできる
- 今なら何でもうまくいく
- 多少の無理は問題にならない
こうした感覚が、強い確信として立ち上がってくる。
本人の中では「合理的」なのだが、
外から見ると、現実の条件が抜け落ちている。
「よく動いている」ことと「役に立っている」ことは違う
躁状態のとき、人は確かによく動く。
- アイデアが止まらない
- 行動が早い
- 疲れを感じない
一見すると、仕事がはかどっているようにも見える。
だが、よく観察すると、別の側面が見えてくる。
- 優先順位がめちゃくちゃ
- 話があちこちに飛ぶ
- 詰めが甘い
- 修正がきかない
- 周囲のブレーキを聞かない
結果として、後からやり直しが増える。
損失が拡大する。
つまり、躁状態とは、
活動量は増えるが、
現実的に有効な行為は減る状態
なのである。
災害時の「使命感」と躁状態
災害時によく聞かれる言葉がある。
- 「今は休んでいる場合じゃない」
- 「自分がやらなきゃ」
- 「多少の危険は仕方ない」
これは尊い態度でもある。
だが同時に、危険を過小評価し、限界を無視する心の動きでもある。
躁状態の患者も、まったく同じことを言う。
- 「寝なくても平気」
- 「疲れてない」
- 「今がチャンス」
短期的には機能的だが、
長期的には必ず破綻する。
戦争の初期に現れる「集団躁状態」
歴史を振り返ると、戦争の初期には、しばしば熱狂が生じる。
- 高揚感
- 団結感
- 正義への確信
- 敵の過小評価
これは個人の躁状態が、集団レベルに拡大したものと考えることができる。
- 非合理的な目標(必ず勝てる)
- 非合理的な手段(犠牲は問題にならない)
この組み合わせは、躁状態の定義と驚くほど一致する。
SNS炎上は「最小単位の集団躁」
現代で最も身近な例が、SNS炎上だろう。
炎上の最中、人々は次のような状態に入る。
- 正義の確信
- 言葉の過激化
- 他者の文脈を考えなくなる
- ブレーキ役が排除される
「言っていること自体」は、必ずしも間違っていないことも多い。
だが、タイミング・量・表現が完全に壊れる。
これもまた、
よく動いているが、
現実的に何も解決していない
状態である。
正常・うつ・躁を比べると
ここで、少し意外な比較をしてみたい。
現実的に有効な行為の質
正常 > うつ状態 > 躁状態
うつ状態の人は、確かに動けない。
だが、
- 無理をしない
- 危険を見積もる
- できないことを認識している
という点では、現実との接続が保たれている。
一方、躁状態では、
- できないことを「できる」と思い込む
- 制限条件を軽視する
- 修正が効かない
結果として、社会的・経済的な損失が大きくなる。
なぜ躁状態は「評価されやすい」のか
躁状態は、社会が好む性質と重なっている。
- 自信
- 行動力
- ポジティブさ
- スピード
だからこそ、見逃されやすく、称賛されやすい。
だがそれは、短距離走としての適性であって、
長距離走としての安定性ではない。
治療とは「元気を奪うこと」ではない
躁状態の治療というと、「元気を抑える」ことだと思われがちだが、違う。
治療の本質は、
現実との距離を、元に戻すこと
である。
- 眠る
- 立ち止まる
- 他者の声を聞く
- 自分の限界を思い出す
これは衰退ではない。
持続可能性の回復である。
結び──静かな状態こそが、社会を動かす
災害も、戦争も、炎上も、
そして躁状態も、
一時的には「勢いがある」。
だが、社会を本当に支えているのは、
- 眠れている人
- 疑問を持つ人
- 立ち止まれる人
つまり、派手ではない正常状態である。
躁状態のエネルギーは眩しい。
しかし、人生を前に進めるのは、
その眩しさではなく、
足元を照らす、控えめな光なのだ。
参考・引用文献
診断・臨床
American Psychiatric Association. DSM-5-TR. APA, 2022.
Goodwin FK, Jamison KR. Manic-Depressive Illness. Oxford University Press, 2007.
Akiskal HS. Mood disorders: clinical features. Kaplan & Sadock’s Comprehensive Textbook of Psychiatry.
躁状態と認知・意思決定
Swann AC et al. Risk-taking in bipolar disorder. American Journal of Psychiatry, 2002.
Johnson SL. Mania and dysregulation of goal pursuit. Clinical Psychology Review, 2005.
群集心理・極限状況
Le Bon G. The Crowd. 1895.
Janis IL. Groupthink. Psychology Today, 1971.
