「個人の気質」の話ではなく、**日本社会が長い時間をかけて作ってきた“好ましい心の型”**の問題。
もちろん、アメリカでも、ドイツでも、フランスでもひどい病態である。日本ではどうか。
なぜ日本社会では「躁的な状態」が称賛されやすいのか
躁状態が危険であることは、精神科の世界ではよく知られている。
それにもかかわらず、日本社会では、躁的な振る舞いがしばしば「良いもの」として扱われる。
- よく動く人
- 休まない人
- 自信満々な人
- 迷わず決断する人
- 空気を読まずに突き進む人
こうした人は、しばしば「仕事ができる」「頼もしい」「リーダー向きだ」と評価される。
なぜなのか。
日本社会は「止まらない人」を好む
まず、日本社会では「止まること」が非常に評価されにくい。
- 立ち止まる=怠けている
- 迷う=優柔不断
- 疑う=やる気がない
- 休む=甘え
こうした暗黙の価値観が、広く共有されている。
躁状態の人は、止まらない。
だから、一見すると「理想的な社会人」に見える。
しかし、ここで重要なのは、
止まらないことと、正しい方向に進んでいることは別だ
という点である。
「空気」を優先する社会と躁的振る舞い
日本社会では、論理よりも「空気」が優先される場面が多い。
- みんながやっている
- 今はそういう流れ
- 水を差すな
躁的な状態は、この「空気」と非常に相性がいい。
躁状態では、
- 疑問を持たない
- ためらわない
- 周囲の熱量に同調する
つまり、集団のテンポを乱さない。
逆に、
- 冷静な人
- ブレーキをかける人
- 「本当にそれでいいのか」と言う人
は、空気を壊す存在になりやすい。
結果として、躁的な人が称賛され、
正常で慎重な人が疎まれる、という逆転が起きる。
「がんばる」は美徳、「調整」は評価されない
日本では、「がんばる」こと自体が美徳とされる。
- 無理をする
- 睡眠を削る
- 限界を超える
これらは、物語としては美しい。
だが、躁状態もまた、
- 無理がきく
- 寝なくても動ける
- 限界を感じない
という特徴を持つ。
問題は、「がんばり」と「躁状態」が、外から見ると区別がつかないことだ。
調整すること、引き返すこと、計画を修正することは、
地味で、成果として見えにくい。
だから評価されない。
日本社会は「減速」を教えてこなかった
学校でも、職場でも、日本社会が教えてきたのは主に二つだ。
- どうやって走るか
- どうやって我慢するか
一方で、
- どうやって減速するか
- どうやって撤退するか
- どうやって失敗を最小化するか
は、ほとんど教えられてこなかった。
躁状態の人は、減速ができない。
だが、日本社会自体も、減速が苦手なので、
その危うさが見えにくい。
歴史的に見た「躁的美徳」
歴史的に見ると、日本ではしばしば、
- 熱狂
- 一致団結
- 自己犠牲
- 勢い
が称揚されてきた。
戦時中のスローガン、
高度経済成長期の「24時間働けますか」、
近年の過剰な成果主義。
これらはいずれも、躁的な心性を前提にした物語である。
そこでは、
- 疑う人
- 休む人
- 引き返す人
は、物語の邪魔者になる。
躁的状態は「成功体験」と結びつきやすい
躁状態が厄介なのは、
一時的には成功することがある点だ。
- 短期的な成果
- 周囲の称賛
- 自己肯定感の高まり
これが、「自分は正しい」という確信を強化する。
社会もまた、その成功だけを見る。
失敗が表面化する頃には、
- 責任は個人に帰され
- 状態そのものは問われない
この構造が、躁的振る舞いを温存する。
冷静さは「やる気がない」と誤解される
正常な状態とは、
- 疑い
- 迷い
- 修正
- 現実吟味
を含んだ状態である。
だが日本社会では、それがしばしば、
- 覇気がない
- 熱意が足りない
- 腰が引けている
と誤解される。
結果として、
最も現実的な状態が、最も評価されにくいという逆説が生まれる。
精神医療が果たしてきた役割
精神医療は、しばしば「元気にする場所」だと思われている。
だが本来は、
元気すぎる状態を、現実に戻す場所
でもある。
躁状態を「調子がいい」と誤解しないこと。
それは、個人を守るだけでなく、
社会全体の暴走を防ぐ視点でもある。
結び──称賛されない強さ
静かで、慎重で、疑い深い人は、
目立たない。
だが、
- 社会を壊さず
- 人を傷つけず
- 長く続く
のは、そうした人たちである。
躁的な勢いが称賛される社会ほど、
減速できる人の価値を、意識的に守らなければならない。
それができない社会は、
何度でも、同じ熱狂を繰り返す。
