「回復モデルが日本でうまく根づかない理由」は、
単に制度輸入が失敗している、という話ではなく、
日本社会の〈時間感覚・正常観・努力観〉そのものが、
回復モデルと噛み合っていない
というところに核心があります。
回復モデルが日本でうまく根づかない理由
――「良くなること」と「戻ること」が混同される社会で
回復モデル(Recovery Model)は、
精神医療の世界では、すでに珍しい考え方ではない。
- 症状があってもいい
- 完全に治らなくてもいい
- その人なりの人生を取り戻すことが回復だ
という考え方である。
にもかかわらず、日本では、この回復モデルが
どこか「うまく腑に落ちないもの」として扱われ続けている。
なぜなのか。
日本では「回復=元に戻る」と思われている
日本語の「回復」という言葉には、
強いニュアンスがある。
- 元の状態に戻る
- 以前と同じようにできる
- 戦力として復帰する
つまり、
回復とは、以前の水準への復元である
という感覚だ。
だが、回復モデルが言う回復は、
復元ではない。
- 以前と同じでなくていい
- できないことがあっていい
- 生活の形が変わってもいい
このズレが、最初のつまずきになる。
「社会復帰」という言葉が示すもの
日本の精神医療には、長く使われてきた言葉がある。
社会復帰。
この言葉には、はっきりした前提がある。
- 社会から一度「脱落」し
- 再び「戻る」
回復モデルの視点から見ると、
この発想そのものが、すでに回復を阻害している。
回復モデルでは、
社会から降りていた、という前提自体を置かない
からだ。
日本社会は「回復を待たない」
回復モデルには、時間がかかる。
- 良くなったり悪くなったりを繰り返す
- 進んだと思ったら、戻る
- 何年もかかることがある
だが、日本社会は、待つことが苦手だ。
- いつ良くなるのか
- いつ働けるのか
- いつ元に戻るのか
この問いが、常に先に立つ。
回復モデルが求める
**「まだ途中であることを許す時間」**が、
社会的に確保されていない。
日本の「正常」は、そもそもハードルが高い
回復モデルは、
正常/異常
できる/できない
を、はっきり分けない。
ところが日本社会の「正常」は、
驚くほどハードルが高い。
- フルタイム
- 継続
- 空気を読む
- 感情を抑える
- 周囲に迷惑をかけない
この「正常」に戻れない限り、
回復したとは認められにくい。
結果として、
回復モデルは、
「甘やかし」「現実逃避」に見えてしまう
回復モデルは「減速」を前提にしている
回復モデルの核心には、
- 休む
- 立ち止まる
- できない自分を引き受ける
という態度がある。
だが、日本社会では、
減速は敗北と見なされやすい。
前章で述べたように、
日本社会は躁的価値観を強く持つ。
- 早く
- 強く
- 前向きに
- 折れずに
回復モデルは、この価値観と真っ向から衝突する。
「本人の希望」が、うまく扱えない
回復モデルでは、
本人の希望が中心に置かれる。
だが日本では、
- 本人が何を望んでいるのか
- それは本当に正しいのか
を、周囲が先に判断してしまうことが多い。
- 働いたほうがいい
- 社会に出たほうがいい
- このままでは困る
こうして、「本人の希望」は、
社会の都合に翻訳される。
医療もまた、回復モデルを誤解する
医療の側でも、回復モデルはしばしば誤解される。
- 症状が残っている=失敗
- 就労できない=回復していない
こうした評価軸は、
回復モデルとは相容れない。
それでも医療がこの軸を手放せないのは、
医療自体が、
社会の躁的価値観に巻き込まれている
からである。
回復モデルは「社会への問い」でもある
回復モデルは、
単なる治療技法ではない。
それは、
この社会は、
人が壊れずに生きられる構造になっているか
という問いを含んでいる。
だからこそ、日本では受け入れにくい。
回復モデルを本気で採用するということは、
社会の側も変わる必要があるからだ。
結び──回復とは「前に戻ること」ではない
回復とは、
- 元に戻ることではない
- 速くなることでもない
- 強くなることでもない
回復とは、
その人が、
現実と無理のない関係を結び直すこと
である。
それを許さない社会では、
回復モデルは、どうしても浮いてしまう。
だが逆に言えば、
回復モデルが根づかない社会こそ、
どこかが回復を必要としている社会
なのかもしれない。
