精神療法は、意味を与える装置なのか
――回復・意味づけ・希望との距離
精神療法は、しばしば「意味を見出す援助」として理解される。
苦しみに意味を与え、回復への希望を語り、未来を描くこと。
しかし、この理解は、臨床の一部しか捉えていない。
もし生が本質的に意味を持たない試行過程であるなら、
精神療法が行っているのは、
意味の回復ではなく、意味がなくても壊れきらない状態を保つことである。
回復とは、
何かを取り戻すことではない。
元の状態に戻ることでもない。
ただ、
生活が極端に破綻しないこと。
自己評価が完全に崩壊しないこと。
他者との関係が、完全には断絶しないこと。
精神療法が支えているのは、
この「崩壊しなさ」の水準である。
意味づけは、そのための道具にすぎない。
希望もまた、目的ではなく、
耐えられる時間を延ばすための仮構である。
ここで重要なのは、
臨床がそれを「真実」として押しつけないことだ。
意味があるかのように語ることと、
意味があると信じさせることは、まったく違う。
成熟した精神療法は、
意味を仮に置く。
必要がなくなれば、静かに外す。
それ以上のことはしない。
実存主義との距離
――サルトルとフランクルをどう読むか
この立場は、しばしば実存主義と混同される。
だが、決定的な違いがある。
サルトルは言った。
人間は自由であり、
意味は自らの選択によって創造される、と。
フランクルは言った。
どんな状況にも意味は潜んでおり、
人間はそれを見出す存在だ、と。
どちらも、
意味を「人間の側に引き寄せる」思想である。
しかし、わたしの立場では、
意味は本質的なものではない。
意味は、
脳がDNA原理の試行を眺めながら、
後づけで構成する局所的な物語にすぎない。
選択が意味を生むわけではない。
意味が潜んでいるわけでもない。
あるのは、
選択が起き、
その結果が生じ、
あとから説明が付される、という順序だけだ。
この点で、
わたしの立場は実存主義よりも冷たい。
だが同時に、
実存主義よりも残酷ではない。
意味を創れなかった人、
意味を見出せなかった人を、
敗者にしないからである。
意味は必須条件ではない。
生きるための補助線にすぎない。
では倫理はどこから生じるのか
意味も目的もない世界で、
倫理はどこから生じるのか、という問いが残る。
超越的な根拠はない。
神も、理念も、歴史の必然もない。
それでも倫理は存在する。
それは、集団が存続するための調整装置として生じる。
遺伝子が単独では生き残れない以上、
協力、抑制、信頼、共感といった振る舞いが
結果的に選別されてきた。
倫理は、
善悪の真理ではない。
破綻を避けるための慣習の集合である。
重要なのは、
倫理が「正しいから」残ったのではなく、
「使えたから」残ったという点だ。
個体生存と子孫存続のために役立ったから、結果として、残った。
この理解に立てば、
倫理を守れない人を、
堕落や悪として断罪する必要はない。
単に、
適応がうまくいっていない状態として理解すればよい。
精神療法が倫理を説かない理由も、ここにある。
臨床は、
善人を作る場所ではなく、
破綻を最小化する場所だからだ。
結び――意味がなくても、生は続く
意味はない。
目的もない。
希望も、必要に応じて置かれる仮構にすぎない。
それでも生は続く。
試行は続く。
進化論プロセスによる選別は静かに進む。
精神療法が引き受けているのは、
この巨大な無意味さを、
個体が一代を生き切るあいだ、
致命的にならないよう支えることだ。
それは宗教ではない。
救済でもない。
だが、祈りに最も近い営みかもしれない。
無宗教者の祈りとは、
意味がなくても、
今日をやり過ごす姿勢のことだからだ。
