これまで積み上げてきた進化論的・意味論的・臨床的視点をすべて引き受けたうえで、
最後に語る側である臨床家自身が、なぜそれでも意味を語ってしまうのかを書く。
それでも、なぜ人は意味を語るのか
――臨床家自身の物語
意味がないことは、もう分かっている。
生きる目的も、あらかじめは与えられていない。
進化論的に見れば、人はただ生き延びて、消えていく。
それでも私たちは、
患者の前で、学生の前で、
ときに自分自身に向かって、意味を語る。
なぜか。
意味は、世界のためではなく、関係のためにある
意味は、世界を説明するためのものではない。
世界は、意味を必要としていない。
意味が必要なのは、
人と人が、同じ場所に居続けるためだ。
臨床の場で、
何も語られない沈黙が続くとき、
その沈黙に耐えているのは、患者だけではない。
臨床家もまた、
「ここに居続けていいのか」という不安を抱く。
意味は、その不安を和らげる。
「この時間は、無駄ではない」
「この関係は、続ける価値がある」
そう自分に言い聞かせるための、
関係維持の言語だ。
臨床家もまた、「意味生成装置」を持っている
臨床家は、
意味を解体する訓練を受ける。
だが、意味を作らない脳を持つわけではない。
むしろ、
- 物語に敏感で
- 因果を読み
- 希望を構成できる
その資質があるから、
この仕事に就いていることも多い。
だから臨床家自身が、
患者の沈黙や停滞に直面すると、
意味生成装置が作動してしまう。
「これは成長の前段階だ」
「この苦しみには意味がある」
それは誤りというより、
人間として自然な反応だ。
意味を語ることで、臨床家は自分を保っている
臨床の仕事は、
報われない時間が長い。
- 劇的な回復は少ない
- 変化は遅く
- 別れは突然
意味を一切語らずに、
これを続けるのは難しい。
意味は、
臨床家自身の燃料でもある。
- この仕事を続けていい
- ここに居続けていい
- 無力でも、関係は残る
そう信じるための、
小さな物語だ。
危険なのは、意味を「真理」にしたとき
意味は、道具であって、真理ではない。
臨床が壊れるのは、
- 意味があること
ではなく、 - 意味が正しいと信じられたとき
だ。
意味が真理になると、
- 逸脱が許されない
- 語れない人が排除される
- 治らない人が沈黙する
臨床家がすべきなのは、
意味を持たないことではない。
意味を、いつでも下ろせることだ。
意味を語らない勇気、意味を語ってしまう弱さ
臨床家は、二つの力のあいだにいる。
- 意味を語らないで、そばにいる勇気
- それでも意味を語ってしまう、人間としての弱さ
どちらかを選ぶ必要はない。
むしろ、
その揺れを自覚していることが、
臨床を臨床にしている。
結び:意味は、残ってもいいし、消えてもいい
進化論的に見れば、
意味はただの副産物だ。
だが、
副産物は、時に人を生かす。
意味は、
- 患者のためでも
- 社会のためでもなく
臨床家自身が、
関係の中に居続けるための、
仮設の足場なのかもしれない。
だから、
- 語ってもいい
- 疑ってもいい
- 手放してもいい
意味を持たない世界で、
それでも誰かの前に座り続ける。
それだけで、
この仕事は、十分に人間的だ。
