臨床家(医者、心理職、支援者)がこの「意味のない、進化論的な世界観」に立つとき、その実践はきわめて誠実で、かつ過酷なほどドライなものになってしまうのでしょうか。
臨床家としての「倫理」と「社会との対峙」、そして「治らないこと」への眼差しを言語化します。
臨床という名の「観測」:意味の過剰を削ぎ落とし、生命に随伴する
精神医療や心理支援の現場には、常に「意味の誘惑」が漂っています。クライエントの苦しみに美しい理由をつけ、回復に感動的な物語を与えたいという誘惑です。しかし、徹底した唯物論的・進化論的視点に立つ臨床家は、あえてその誘惑を拒絶します。
なぜなら、安易に「意味」を作り出すことは、時に目の前の生命(個体)が発している「純粋な不適応のサイン」を歪めてしまうからです。
1. 臨床家自身が「意味を作りすぎない」ための節度
臨床家がクライエントに「この苦しみには意味がある」「成長のための試練だ」と語るとき、それは救いである以上に、臨床家側の「無意味さに耐えられない不安」の投影かもしれません。
進化論的な視点に立てば、その不調は「遺伝子セットと環境のミスマッチ」という物理的なエラーです。そこに物語を上書きすることは、サボテンを湿地に植えたまま「根腐れにも意味がある」と説くようなものです。
臨床家の真の役割は、意味を与えることではなく、「適応のダイナミズムを、先入観なく観察する共同研究者」になることです。
「この個体(クライエント)は、今の環境下でこれほどまでに深刻なアラートを発している。では、どの変数を変えれば、生存コストが下がるだろうか?」
この徹底した客観性こそが、クライエントを「物語の奴隷」にせず、一つの生命体として尊重することに繋がります。
2. 「社会の要請」という名の暴力:治療が「部品修理」になるとき
ここで大きな危険が浮上します。臨床家が「適応」を促すとき、その基準をどこに置くかという問題です。
社会(会社、学校、国家)は臨床家にこう要請します。「彼らを、再び働けるようにしてくれ。学校に戻してくれ」。つまり、「社会というシステムにとって都合の良い部品に修理せよ」という圧力です。
唯物論的な臨床家は、この要請に対してきわめて自覚的でなければなりません。
もし、「治る=元の環境(職場や学校)に戻る」ことだけを目指すなら、それは臨床ではなく、「社会による個体の飼い慣らし」に加担することになります。
進化論的に見れば、ある環境に適合できない個体がいることは、その個体の欠陥ではなく「環境側の多様性の欠如」を示しているにすぎません。臨床家は社会の代理人ではなく、あくまで「個体(生命)」の側に立ち、社会という環境との「パワーバランスの調整役」として振る舞うべきなのです。
3. 「治らない人」とどう並走するか:不適応という「生存のあり方」
臨床の現場には、どんなに手を尽くしても「現代社会に適応できない人(治らない人)」が存在します。自己責任論が支配する社会では、彼らは「敗北者」と見なされます。
しかし、進化論的な視点は、彼らに全く別の光を当てます。
「治らない」とは、その個体の遺伝子構成が、現時点での環境(現代社会)のスペックと、どうしても折り合いがつかないという「一つの厳然たる事実」を示しているだけです。
それは、深海魚を浅瀬に連れてきても泳げないのと同じです。深海魚は「壊れている」のではありません。ただ「場所が違う」だけです。
「治らない人」と並走するとは、以下のことを意味します。
- 「変えられないもの」への敬意: その個体の特性を「修正すべきバグ」としてではなく、「この宇宙に現れた一つの特異な構成(データ)」として認め、そのまま受け入れること。
- 生存のコストダウン: 社会に適応させることを諦め、その個体が「不適応なままで、いかに苦痛を少なく生存し続けられるか」に知恵を絞ること。
- 単なる「存在の証人」になる: 宇宙に意味がない以上、適応できなくても、ただ「そこに存在している」こと自体が、数十万年の遺伝子の連鎖が辿り着いた一つの帰結です。臨床家は、その「不器用な生存」を、ジャッジすることなく見届ける最後の観測者になります。
結びに:乾いた慈悲
「意味もない、目的もない。ただ遺伝子が環境を試しているだけだ」という世界観は、一見すると冷酷です。しかし、そこには「どんなに不格好な不適応であっても、それは単なる一つの現象であり、断罪されるべきではない」という、究極にフラットな慈悲があります。
臨床家が「意味」という色眼鏡を外したとき、初めて、社会の要請からも、道徳の呪縛からも自由になった「むき出しの生命」そのものと向き合うことができるのです。
それは、熱狂的な救済ではありません。もっと静かで、乾いた、しかし揺るぎない「随伴(そこに共にあること)」という営みなのです。
