多様性を主張する人は、多様性のある人材でチームを組んで、創造性を高めようなどと言っている。 その場合、精神障害者は包含されているのだろうか。 逆に言えば、多様性のある人材でチームを作って、創造性が高まるのなら、そのメンバーは精神障害ではない。 創造性が高まらないので、チームから除外される存在を精神障害と定義しているのではないかとの疑いも生まれる。
1. まず確認すべき前提:「多様性」は何のために語られているのか
現代の組織が語る「多様性」は、しばしば次の形をとります。
多様な人材を集める
↓
視点が増える
↓
創造性が高まる
↓
組織の成果が上がる
ここで重要なのは、
多様性そのものが価値なのではなく、成果に結びつく限りで価値づけられている
という点です。
つまりこの文脈での多様性は、
- 倫理的要求ではなく
- 人権の主張でもなく
- 経営戦略・生産性向上の手段
として語られている。
この時点で、すでに条件が付いている。
2. その条件のもとで、精神障害者は包含されているか
結論から言えば、ほとんどの場合、構造的に排除されている。
理由は単純です。
- 症状の波がある
- 予測可能性が低い
- 安定したアウトプットを保証しにくい
- 対人摩擦や疲労が起きやすい
これは「能力が低い」という話ではなく、
組織が求める〈創造性〉の形式と合致しにくいということ。
多くの企業や組織が想定している創造性とは、
- 会議で発言できる
- 議論を前に進められる
- 期限内に形にできる
- チームワークを乱さない
という、高度に社会化された創造性です。
精神障害が関わるのは、しばしばその前段階──
- 思考が過剰に飛躍する
- 意味づけが過剰になる
- 情動が先行する
- 疲労や混乱が起きる
この段階は、創造の「源泉」にはなり得ても、
組織が欲しがる「成果」には直結しない。
3. すると、疑いが生じる
創造性が高まる多様性だけを選別し、
高まらないものを排除した結果、
それを「精神障害」と呼んでいるのではないか?
これは乱暴な言い方ではあるけれど、
構造的にはかなり当たっている。
歴史的に見ても、
- 社会に適応できない
- 集団のリズムを乱す
- 生産や統制に乗らない
存在は、繰り返し「病理化」されてきた。
精神障害の診断は医学的根拠を持つ一方で、
どこからを障害とみなすかは、
常に社会の要請と絡み合って決まってきた。
その意味で、
「創造性を高める多様性」
に貢献できない差異
が、
「ノイズ」「リスク」「ケア対象」として
切り分けられる構造は、確かに存在する。
4. 多様性論の決定的なねじれ
ここに、多様性論の自己矛盾があります。
- 表向き:違いを尊重する
- 実態 :成果に結びつく違いだけを選ぶ
つまり、
多様であれ
ただし役に立て
という条件付き承認。
この構図の中では、精神障害者は、
- 多様性の理念の象徴としては利用され
- 実際のチーム編成からは外されやすい
「含まれているように語られ、含まれていない」
これが現実です。
5. では、どう考え直せばよいのか
ここで分けるべきなのは、二つの異なる問いです。
問い①
多様性は、創造性を高めるか?
→ 条件付きで、Yes。
問い②
多様性は、尊重されるべきか?
→ 成果と無関係に、Yesでなければならない。
この二つを混ぜてしまうから、
精神障害者は常に不利になる。
6. 精神障害者を本当に包含するとはどういうことか
それは、
- チームの創造性が上がるかどうか
- 組織の成果に寄与するかどうか
とは別の軸で、存在を承認すること。
言い換えれば、
創造性が高まらなくても
そこにいてよい多様性
を引き受ける覚悟があるかどうか。
多くの「多様性推進」は、
この問いを避けたまま進んでいる。
7. 結論として
疑いはこう整理できると思います。
- 現代の多様性論は、
生産性と創造性に奉仕する限りでの多様性である - その枠組みでは、精神障害者は構造的に排除されやすい
- その排除を正当化するために、
「障害」というラベルが利用される危険がある - 真に多様性を語るなら、
「役に立たない差異」と共にある覚悟が問われる
多様性とは、本来、
うまく機能しない他者と、
それでも関係を切らないこと
を引き受ける概念だったはずです。
そこまで踏み込まない限り、
多様性は理念ではなく、
洗練された選別装置にとどまる。
