プロレスと政治の同質性
プロレスを見て「どうせ決まっている」と言う人は、だいたい最後まで試合を見ている。政治について「どうせ裏で決まっている」と言う人も、選挙の夜には開票速報を追う。冷笑は、関心の欠如ではなく、関心の処理の仕方にすぎない。
プロレスのリングには、あらかじめ役割が割り当てられている。善玉と悪玉、被害者と加害者、裏切る者と裏切られる者。観客はそれを知っているが、それでも怒り、泣き、歓声を上げる。なぜか。そこに、自分の感情を安全に預けられるからだ。プロレスは、感情の委託先として、よくできている。
政治も同じである。政治家は、政策を実現する以前に、感情を引き受ける役を割り当てられる。怒ってくれる人、希望を語ってくれる人、汚れ役を引き受ける人。市民はそこに、自分の不満、恐怖、無力感を投影する。問題が解決されるかどうかは二次的で、重要なのは「誰かがそれを背負ってくれている」という感覚だ。
臨床の場でよく見るのは、投影と同一化が絡み合う瞬間である。人は、自分の中の扱いきれない部分を外に出し、それを誰かに背負わせ、同時にその誰かと一体化する。プロレスでは、ヒールがその役を引き受ける。政治では、敵国、既得権、官僚、あるいは特定の政治家がそれを担う。構造は同じだが、政治の方が始末が悪い。リングの外まで続くからだ。
同一化は、快い。自分は正義の側にいる、強い側にいる、歴史の正しい流れに乗っている。プロレスでは試合が終われば解けるが、政治では解けないまま日常に持ち越される。その結果、現実の複雑さは「裏切り」や「敵意」に変換され、思考は単純化される。
冷笑が生まれるのも、ここだ。過剰な同一化が必ず失望を生むことを、人は経験的に知っている。だから最初から距離を取る。「どうせ茶番だ」と言いながら、なお目を離せないのは、投影をやめられないからである。投影をやめれば、怒りも希望も宙に浮く。その不快さに耐えるより、茶番だと言っておく方が楽なのだ。
政治が「プロレス化した」のではない。むしろ、政治は巨大な集団精神療法の失敗例と言えるかもしれない。本来、投影は回収され、同一化はほどかれる必要がある。しかし政治は、それを制度として固定してしまう。役割は更新されず、敵は保存され、物語だけが延命する。
プロレスが健全なのは、最後に必ずカーテンコールがあるからだ。レスラーは素に戻り、観客も日常へ帰る。政治にはそれがない。誰もリングを降りない。だから疲弊するし、冷笑が蔓延する。
結局のところ、政治に対する冷笑は賢さの証ではない。感情を引き受けさせ続けながら、責任だけを拒否する態度である。プロレスを「わかって見ている」観客より、さらに一段、卑怯だとも言える。
それでも私たちは、今日も観戦をやめない。投影せずに生きるのは難しい。同一化なしに集団を作ることも難しい。だからせめて、自分がいま誰に何を預けているのかだけは、時々点検した方がいい。そうしないと、気づいたときには、リングの外で流血しているのは、いつも同じ人たちになる。
