プロレスと政治の同質性-3


プロレスと政治の同質性

プロレスが成立するのは、勝敗が決まっているからではない。役割が固定され、感情の流れが予測可能だからである。観客は安心して怒り、安心して熱狂できる。政治も同じ条件のもとで作動している。違いがあるとすれば、政治の方が、自分が何をしているのかを認めたがらない点にある。

精神分析的に言えば、プロレスも政治も、集団的な転移装置である。

観客や市民は、自分の内部にある不安、怒り、無力感を、特定の人物に向けて配置する。レスラーや政治家は、個人としてではなく、心的な「受け皿」として扱われる。支持も攻撃も、実際にはその人物の現実的行為を超えて過剰になる。これは理解の問題ではなく、転移が起きているという事実の問題だ。

転移が起きれば、必ず逆転移が生じる。レスラーは観客の期待に応えるように振る舞い、政治家は支持者の感情を裏切らないように語調や敵役を調整する。ここで重要なのは、彼ら自身もまた、その役割に巻き込まれていくという点である。演じているつもりが、次第に演じられていく。政治的言動が空疎になるのは、しばしばこの段階である。

さらに、この構造を安定させているのが**スプリッティング(分裂)**だ。

善と悪、味方と敵、被害者と加害者。複雑な現実は二分され、曖昧さは排除される。プロレスでは、この分裂が露骨である分、無害ですらある。政治では、分裂は道徳化され、「正しい側にいる」という快感を伴う。その快感こそが、思考を停止させる。

スプリッティングが進むと、妥協は裏切りになり、調整は堕落になる。現実に対応しようとする政治家ほど、支持者から失望される。これは政治の失敗ではなく、心的構造の帰結である。分裂された世界では、「中間」に位置するものは存在を許されない。

ここで冷笑が登場する。冷笑とは、構造を見抜いた知性の表現ではない。むしろ、転移を断ち切る勇気がないまま、同一化だけを拒否する態度である。投影は続けたいが、責任は引き受けたくない。その結果、「どうせ茶番だ」という言葉が便利に使われる。

臨床の場では、転移は扱われ、言語化され、徐々に回収されていく。しかし政治には、分析家がいない。いや、正確には、誰もその役を引き受けたがらない。転移を解釈する者は、たちまち敵にされるからだ。分裂の外側に立つ者は、どちらの陣営からも裏切り者と見なされる。

プロレスが健全なのは、終わりがあるからである。試合が終われば、転移は解除され、逆転移も回収される。政治には終わりがない。転移は慢性化し、役割は固定化し、スプリッティングは制度として保存される。集団は、治療されない神経症のように、同じ症状を反復する。

結局のところ、政治が「幼稚」なのではない。政治をめぐる私たちの心的関与が、未分析のまま放置されているだけだ。プロレスはそれを娯楽として隔離した。政治はそれを現実だと言い張った。その差が、これほど大きな疲労を生んでいる。

政治を変えることよりも先に、政治に向けて自分が何を転移しているのかを点検する必要がある。そうでなければ、次のヒールも、次の英雄も、同じ役割で消費されるだけだ。リングは変わらず、観客だけが年を取る。


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