プロレスと政治の同質性
政治をめぐる言説が、ここまで幼稚で、攻撃的で、消耗的になっているのは偶然ではない。そこではもはや理念も政策も主役ではない。作動しているのは、集団レベルの迫害不安である。
言葉では意味を何か送ってきているが、届いているのは原始的な感情だけである。意味を読解していない。読解されようと努力しても、効果がない。
発散されているのは、怒っている、戦っている、そのような感情だけである。
クライン派の言葉を借りれば、政治空間はしばしばパラノイド・スキゾイド・ポジションに固定されている。世界は善と悪に分裂され、悪は外在化され、攻撃されるべき対象として指示される。プロレスのヒールは、この役割を無害な形で引き受けるが、政治ではそれが現実の他者に向かう。
敵は常に「われわれを脅かしている」。経済、移民、官僚、メディア、左派、右派、外国勢力。名前は変わっても、機能は同じだ。重要なのは敵が実在するかどうかではない。迫害不安を収容してくれるかどうかである。
この段階では、思考は不要になる。むしろ思考は危険だ。曖昧さは不安を増幅させ、現実検討能力は低下する。だから語りは単純で、口調は断定的になり、物語は反復される。政治がスローガン化するのは、知性の退行ではなく、防衛の成功なのだ。ワン・フレーズ・ポリティクスである。
プロレス的政治が安定しているのは、観客=市民がこの分裂に快を見出しているからである。善玉と悪玉が明確であれば、自分の内部にある攻撃性を安全に外に出せる。ここでは攻撃は正義と呼ばれ、破壊は浄化と呼ばれる。
だが、この構造は必ず限界に突き当たる。分裂によって排除されたもの――曖昧さ、依存、罪悪感、修復の欲求――は消えない。それらが表に出てくる瞬間、集団は抑うつポジションに振れる。
例えば、自民と連立していた公明が連立離脱、そして公明と立憲が新党結成、維新が自民と連立。こうした組み換えによって、ヒーロー役の与党もヒール役の野党も、実際は政治ビジネスを行う同じたこつぼの中の住民だと人々は知ることになる。日本ではヒールの外国人レスラーが、アメリカではヒーロー役だ。日本人レスラーはアメリカではヒールであり、反則技で血を流してみせる。
抑うつポジションとは、善と悪が同じ対象に属していることを認めざるをえなくなる地点である。守りたいものを、自分もまた傷つけてきたという認識。攻撃してきた相手(たとえば中国)が、実は不可欠な存在だったという気づき。政治においてこれは、妥協、反省、制度設計、長期的視野といった形で現れる。
しかし、抑うつポジションは耐えがたい。罪悪感が生じ、修復責任が生じる。だから多くの場合、集団はそこに留まらない。再び敵を設定し、物語を単純化し、パラノイド・スキゾイド・ポジションへと退行する。ここで、新しいヒールが必要になる。プロレスとまったく同じである。
政治的スキャンダルが、構造的改革ではなく、人格攻撃で終わるのは偶然ではない。それは修復ではなく、再分裂を選んだ結果である。誰かを悪者にすれば、罪悪感を引き受けずに済む。抑うつポジションを回避できる。
冷笑は、この往復運動を見て育つ。人は無意識のうちに知っている。どんな改革も長続きせず、どんな反省も物語に吸収されることを。だから最初から距離を取り、「どうせ同じだ」と言う。その冷笑は、洞察ではなく、抑うつポジションに入らないための防衛である。
プロレスが救いなのは、抑うつポジションを疑似的に体験できるからだ。ヒールもベビーフェイスも、同じ業界に属し、同じ身体を持ち、試合後には握手する。観客はそれを知っている。善と悪が同一平面に回収される瞬間が、あらかじめ用意されている。
政治にはそれがない。善悪は回収されず、分裂は固定され、修復は延期され続ける。結果として、集団は慢性的な迫害不安の中で消耗する。叫びは増え、言葉は減り、現実は置き去りにされる。
政治がプロレス的なのではない。プロレスだけが、政治よりも精神的に成熟しているのだ。少なくとも、自分たちが何をしているのかを、どこかで分かっている。
抑うつポジションにとどまることは、格好悪く、疲れる。英雄も悪役もいなくなる。残るのは、傷つけ、傷つけられ、なお修復しようとする主体だけだ。政治が本当に始まるとすれば、おそらくその退屈な地点からである。だがそこには、観客がいない。
