日本社会=「抑うつポジション不耐症」仮説
――プロレスと政治の同質性・補遺
日本社会は、抑うつポジションにとどまることができない社会である。これは価値判断ではなく、構造の記述である。
クライン派の用語で言えば、日本社会は集団としてパラノイド・スキゾイド・ポジションへの回帰が異様に早い。分裂、外在化、道徳化が起きる速度が速く、抑うつポジションに触れた瞬間、ほとんど反射的にそこから離脱する。
抑うつポジションとは、善と悪が同一の対象に属していることを引き受ける地点である。守ろうとしたものを、自分もまた壊してきたという認識。被害と加害が同時に存在するという了解。そこには罪悪感があり、修復責任が生じ、時間がかかる。
日本社会は、この地点に耐えない。
代わりに何が起きるか。
「誰かが悪かった」
「空気が悪かった」
「時代が悪かった」
「説明が足りなかった」
原因は常に外にあり、人格か状況に切り分けられる。構造の問題が、個人の資質か偶発的事故に変換される。これは無責任なのではない。耐えられないのである。
この不耐性は、戦後日本の政治文化に一貫して見られる。失敗は総括されず、検証は形式化され、責任は曖昧に分散される。誰も「完全に悪く」はならず、同時に誰も「修復する主体」にならない。抑うつポジションにとどまるために必要な、時間と沈黙と不格好さが、社会的に許容されない。
その結果、日本社会では政治がプロレス的にしか存在できない。
善と悪をはっきり分け、ヒールを設定し、短期的な感情処理を行う。怒りは正義として放出され、失望は冷笑として回収される。修復や再設計に向かう前に、物語が更新される。次の敵、次の不祥事、次の顔。
ここで重要なのは、日本社会が特別に攻撃的だという話ではない。むしろ逆で、攻撃性を内部で処理できない。だから外に出す。分裂させる。道徳化する。政治的言説が妙に潔癖で、同時に残酷なのは、このためである。
抑うつポジションには、必ず「自分も関与していた」という感覚が含まれる。制度を支えていたのは自分であり、見過ごしていたのも自分であり、利益を享受していたのも自分である。この自己関与感覚は、日本社会では強い恥と結びつく。恥は罪悪感よりも処理が難しい。だから回避される。
回避の結果として生まれるのが、冷笑である。
冷笑は距離ではない。抑うつポジションへの入口を封鎖する防衛である。「どうせ変わらない」「誰がやっても同じだ」という言葉は、諦念ではなく、自己関与を拒否するための呪文だ。関与しなければ、罪悪感も修復責任も生じない。
臨床的に見れば、日本社会は「分析に入る直前で話題を変え続ける患者」によく似ている。感情は豊富で、語りも多い。しかし核心に近づくと、空気が変わり、誰かが冗談を言い、別の話題が提示される。セッションは続くが、作業は進まない。
プロレスが健全に見えるのは、そこに擬似的な抑うつポジションの回路があるからだ。敵も味方も同じ舞台に属し、試合後には同じ控室に戻る。破壊と修復が、最初から同じ枠組みに回収されている。
日本の政治には、それがない。あるいは、作られる前に壊される。抑うつポジションにとどまる者は「空気が読めない」「水を差す」「面倒くさい」として排除される。修復を語る言葉は、盛り上がらない。
だから仮説はこうなる。
日本社会は、抑うつポジション不耐症である。
その社会で政治が成熟しないのは、不幸でも失敗でもない。心的構造として、ほぼ必然である。プロレス的政治は、症状であって原因ではない。
もし政治が変わるとすれば、それは制度改革の結果ではない。抑うつポジションに、少し長く留まる練習が始まったときだろう。誰も英雄にならず、誰も完全な悪にならず、拍手も罵声も起きない時間。
だがその時間は、退屈で、評判が悪く、数字にならない。日本社会が最も嫌う種類の時間である。
だから今日もまた、次の試合が始まる。
