**「なぜこの政治は解釈に失敗し続けるのか」ではなく、「なぜ解釈が成立しない構造になっているのか」**
共感よりも観察、処方よりも記述。
臨床家の視点から見た「解釈不能な政治」
臨床家として政治を眺めるとき、最初に感じるのは怒りでも絶望でもない。解釈が入らない、という違和感である。
症状は見える。反復も見える。転移も、分裂も、迫害不安も、過剰な道徳化も、あまりに分かりやすい。しかし、それらを言葉にして差し出した瞬間、政治空間では必ず何かが起きる。話題が逸れ、人格攻撃が始まり、「どっちの味方か」が問われる。解釈は受け取られない。いや、受け取られないように設計されている。
臨床では、解釈不能な状態というものがある。患者が「話しているようで、何も語っていない」状態。言葉は流れているが、象徴化が起きない。感情は動くが、意味が固定されない。政治の言説空間は、驚くほどこれに似ている。
理由は単純である。政治空間では、解釈が常に行為と誤認される。理解しようとすることは、支持か攻撃かのどちらかに回収される。中立的な位置、あるいは第三の視点が存在する余地がない。臨床で言えば、解釈した瞬間に「あなたは私を責めている」と受け取られる状態だ。
このとき作動しているのは、強固なスプリッティングである。解釈は善でも悪でもないはずだが、分裂した場では、必ずどちらかに分類される。結果として、解釈は暴力として体験される。だから排除される。
さらに厄介なのは、政治空間における逆転移の過剰である。政治家、論者、メディア、知識人は、常に大量の感情を浴びる。その中で生き延びるには、感情を返すしかない。怒りには怒りを、期待には誇張された希望を。ここでは沈黙や逡巡は「無能」と見なされる。臨床で最も大切にされる態度が、最も忌避される。
その結果、政治は「解釈される対象」ではなく、「感情を循環させる装置」になる。意味は生成されず、刺激だけが更新される。これは失敗ではない。そうでなければ場が維持できないからだ。
臨床家の目には、ここで一つの決定的な欠如が見える。
それは、抑うつポジションに入るための安全な枠が存在しないということである。
抑うつポジションとは、善と悪が同じ対象に属することを認める地点であり、そこでは必ず「自分も関与していた」という感覚が生じる。政治にこれを適用すれば、「自分もこの制度を支えていた」「利益を受け取っていた」「見ないふりをしていた」という認識が不可避になる。
しかし政治空間には、それを受け止める容器がない。罪悪感は即座に責任追及に変換され、修復の話は敗北の物語に書き換えられる。だから抑うつポジションは瞬時に回避され、再び分裂へと退行する。
臨床で言えば、これは解釈を入れるたびにセッションが崩壊する患者である。解釈が間違っているのではない。タイミングでも、言い方でもない。そもそも、解釈を受け取る準備が構造的に欠如している。
この意味で、政治はしばしば「治療不能」に見える。だが正確に言えば、治療を許さない構造を持っている。解釈は攻撃と誤認され、沈黙は敵意と誤解され、修復は敗北とみなされる。その場で生き残るには、感情を煽り、物語を単純化し、敵を更新し続けるしかない。
プロレスがまだ健全なのは、解釈不能性をあらかじめ引き受けているからだ。観客は「これは演出だ」と知っている。善と悪が同一の舞台に属していることも知っている。だから、試合後に戻れる。
政治にはそれがない。政治は「現実である」と主張し続けることで、象徴化の回路を失っている。現実であるがゆえに、解釈が許されない。これは逆説的だが、臨床的にはよく知られた病理である。
臨床家の視点から見れば、政治はもはや「理解すべき対象」ではない。なぜ理解が拒否されるのかを観察すべき現象である。その観察自体が嫌悪される限り、政治は変わらない。
そして最後に、最も冷たい事実が残る。
この解釈不能性を、私たち自身が必要としているという事実だ。解釈が入らないからこそ、罪悪感を回避できる。修復責任を引き受けずに済む。怒りと冷笑だけで関与している「感じ」になれる。
臨床では、治療が進まない理由は患者の抵抗だけではない。変わらないことの利得が、あまりに大きい場合がある。政治も同じである。
解釈不能な政治は、失敗ではない。
それは、私たちがまだ手放す気のない均衡状態なのだ。
