結論を先に言うと、
日本ではキリスト教は「意味の空白」を埋める必要がなかったが、韓国ではそれを強く必要とした
――この一点に、かなりの部分が集約できます。
1. 国家と宗教の関係の決定的な差
日本
日本では、近代化の過程で
- 天皇制
- 国家神道
- 家制度
が「宗教に代わる意味装置」として機能しました。
明治国家は、
個人の救済や倫理の根拠を、超越神ではなく
「国家・天皇・国体」に回収した
つまり、
- 「信じなくても生きられる」
- 「帰属が最初から与えられている」
社会だった。
キリスト教が提供する
- 罪と赦し
- 個人の魂
- 超越的正義
は、国家がすでに横取りしていたとも言えます。
韓国
一方、韓国(朝鮮半島)はまったく逆です。
- 王朝は滅び
- 日本に植民地化され
- 伝統秩序は破壊され
- 国家は「守ってくれない存在」になった
つまり、
国家が意味を与えなかった社会
むしろ意味を奪った社会
このとき、キリスト教は
- 国家に対抗できる
- 外部にある超越的正義
として機能した。
これは決定的です。
2. 「共同体宗教」vs「個人宗教」
日本の宗教構造
日本の宗教は、もともと
- 共同体儀礼(年中行事・先祖供養)
- 空気・慣習・場の宗教
- 「信じる」より「やる」
です。
仏教も神道も、
「あなたは何を信じますか?」
とは基本的に問わない。
そのため、
信仰告白を要求するキリスト教は、文化的に浮く。
韓国の宗教構造
朝鮮儒教社会は、実は非常に
- 規範的
- 教義中心
- 正誤がはっきりした世界
です。
そのため、
- 教理が明確
- 正義/罪/救済がはっきり
- 言語化された信仰
を持つキリスト教は、むしろ相性がよかった。
特にプロテスタントの
- 聖書中心主義
- 説教文化
- 集団規律
は、儒教的エリート文化と親和性が高い。
3. 「近代」との結びつき方の違い
日本の場合
日本の近代化は、
- 国家主導
- 上からの改革
- 宗教を「私事」に押し込める
という形で進んだ。
キリスト教は
- 近代思想の一部としては評価された
- しかし「社会を変える力」にはならなかった
内村鑑三が象徴的ですね。
思想としては尊敬されるが、社会的基盤は広がらない。
韓国の場合
韓国ではキリスト教が
- 近代教育
- 女性教育
- 医療
- 民族独立運動
と強く結びついた。
つまり、
キリスト教 =
生き延びるための実践
抵抗の倫理
未来の希望
だった。
これは信仰というより、
生存戦略に近い。
4. 「罪」と「恥」の文化差だけでは足りない
よく言われる
- 日本=恥の文化
- 韓国(+西洋)=罪の文化
これは一部正しいが、十分ではありません。
より重要なのは、
- 日本では「罪」が国家と共同体に吸収された
- 韓国では「罪」を引き受ける主体が国家になれなかった
という違いです。
だから韓国では
「神の前に立つ個人」
が切実になった。
5. まとめると
一文でまとめるなら、こうです。
日本では、国家と共同体が
人生の意味と帰属をあらかじめ配っていた。韓国では、それが破壊され、
キリスト教がその空白を埋めた。
あるいは、少し臨床的に言えば、
- 日本社会:「信仰を持たなくても崩れない構造」
- 韓国社会:「信仰がなければ持ちこたえられない経験」
この差が、布教の成否を分けた。
