1.日本社会で性と攻撃が「語られにくい」理由
1-1.性と攻撃が「関係性の問題」ではなく「迷惑の問題」になる社会
日本社会では、性と攻撃は倫理や権利の問題としてよりも、
**「周囲に迷惑をかけるかどうか」**で評価されやすい。
- 性的欲望:はみ出せば「空気が読めない」
- 攻撃性:表出すれば「和を乱す」
この評価軸では、
「なぜそうなったのか」を語る言語が育たない。
語られるのは常に結果としての逸脱であり、
欲望や衝動そのものは沈黙させられる。
1-2.性と攻撃の「外注構造」
日本では、性も攻撃も、個人が引き受けるものではなく、
制度・役割・場面に外注されてきた。
- 性:結婚制度、夜の街、フィクション
- 攻撃:会社組織、上下関係、世間、空気
この外注が機能している間は、個人は語らずに済む。
だが制度が弱体化すると、
外注先を失った衝動が未加工の形で噴き出す。
1-3.言語化の欠如と「善悪短絡」
語る言葉を持たない社会では、
性と攻撃はすぐに善悪で裁かれる。
- 説明=言い訳
- 理解=容認
という短絡があるため、
語ること自体が危険行為になる。
結果として、
- 表では沈黙
- 裏で逸脱
という二重構造が固定される。
2.臨床場面での性的逸脱と攻撃性の読み方
ここからは、より実践的な話になる。
2-1.まず「止める」ではなく「位置づける」
臨床場面で性的逸脱や攻撃性が現れたとき、
最初にすべきことは矯正ではない。
問うべきは、
- それは何を守っているのか
- どの関係が壊れそうだったのか
- どの感情が語れなかったのか
性的逸脱や攻撃は、
しばしば言語化に失敗した関係性の最終形態である。
2-2.性と攻撃を「同一視しない」
重要な臨床的原則は、
性=攻撃、攻撃=性という短絡をしないこと。
- 性的行為の形を取った攻撃
- 攻撃的衝動が性に転化したもの
- 性衝動とは無関係な支配行動
これらを丁寧に区別することで、
患者自身も初めて「自分が何をしていたのか」を語れるようになる。
2-3.被害と主体性を同時に読む
特に日本では、
加害か被害かの二分法に引きずられやすい。
しかし臨床では、
- 被害を受けたこと
- それでも行為者であったこと
を同時に読む必要がある。
どちらかを消すと、
- 過剰な自己断罪
- 全面的な他責化
のどちらかに傾く。
2-4.「集団的軽躁」との接続を読む
性的逸脱や攻撃性が、
個人の特性ではなく、
集団的軽躁の局面で出現していないかを見る。
- 職場
- 家族
- 宗教集団
- オンライン空間
ここでは、個人は「自分でやった」という感覚を持ちにくい。
臨床家は、
個人化しすぎない視点を持つ必要がある。
3.臨床家の技法としての「語らせ方」
3-1.直接聞かない
日本社会では、
性や攻撃を正面から問うと沈黙が強化される。
代わりに、
- その前後で何が起きていたか
- 体の感覚はどうだったか
- 終わった後、何が残ったか
といった周辺からの問いが有効である。
3-2.「正しさ」を一時的に保留する
倫理判断は不可欠だが、
臨床の場では順序を後ろに回す。
- まず理解
- 次に意味づけ
- 最後に責任
この順序を守らないと、
語りは防衛か沈黙に変わる。
3-3.沈黙を急がない
性的逸脱や攻撃性について語ることは、
患者にとって集団から追放されるリスクを伴う。
沈黙は抵抗ではなく、
まだ安全ではないというサインである。
4.結語――語られないものを扱うという仕事
日本社会では、
性と攻撃は「ないこと」にされやすい。
だが、ないものは臨床には現れないはずなのに、
現実には繰り返し現れる。
臨床家の仕事は、
それを正すことでも、
説明しきることでもない。
語られなかった理由を含めて、語れる形にすること。
性と攻撃を扱うとは、
危険な衝動を扱うことではなく、
危険な沈黙を扱うことなのだと思います。
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