要点
ここが要点です。セラピストとして、他者の感情に深く耳を傾ける能力を妨げる多くの要因があります。 私たち自身が制限された感情レパートリーを持っている可能性があります。私たち自身の親の一方または両方が、彼ら自身の感情的歴史のために、私たちの感情の一部に存在することができなかったかもしれません。私たちは、患者の中の特定の状態に対して、不思議なほど共にいることができないことに気づくかもしれません。ある状態は、無表情の母親が彼女の乳児を置き去りにしたように、私たちを内側で凍りつかせ、一時的に感情的に患者から離れさせるかもしれません。ある状態は、私たちを問題解決モードに放り込み、患者の感情を離れて密かに「これを試してみたらどうですか?」という姿勢に移行させるかもしれません。あるものは、(私たちが不安な質問だと認識していない)質問の連鎖を引き起こすかもしれません。厄介なのは、私たちは必ずしも時間の経過とともに自分自身の中で何を抑制してきたかを見ていないので、自分がどこで感情的に未発達であり、したがって患者に対して十分に調和していないかを必ずしも知ることができないということです。
私は、私たちに組み込まれた感情レパートリーをピアノの鍵盤のように想像します。私たちの内部で特定のキーがテープで押さえられることがあります。オクターブ全体が欠けていることもあります。しかし、私たちは自分自身の中の音楽の音に慣れてしまい、例えば低音が加えられたら、その曲がどのように聞こえるか(そしてそれがどれほど美しいものになるか)さえも知らないのです。
レパートリーの拡大
これが、心理療法士として深く聴く技術を習得したいと望む私たちが、自分自身のために調和のとれた療法を受ける経験を必要とする理由です。この環境の中で、もう一人の人間が私たちの中の音楽に耳を傾け、私たち自身の感情の鍵盤の消音されたキーをゆっくりと慎重に開放するのを助けることができるのです。これはしばしば痛みを伴うプロセスです。自分の感情的な生得権の一部を失った(そしてそれがどのようにして起こったか)ことを理解するのは痛みを伴います;自分の音楽がずっと、他者や自分自身にとって、どれほど薄っぺらく聞こえていたかを実感するのは痛みを伴います;子供の頃に簡単に習得できたかもしれないことを、大人として不器用に練習するのは痛みを伴います。しかし、私たちは誰も私たちに調和していない方法で他者に調和することはできません。私たち自身の中で閉じているものを、他者の中で開くことはできないのです。
深く聴く。その技術。ここで私たちを再び集めるために少し時間をとりましょう。この章では、他者の感情的および身体的経験の原始的感情の部分を捉えるのを助けるための共鳴器として、私たちの全身での登録を使用することについて話し始めました。これについては後でもっと話します。私たちはこの部分を行うための準備について話してきました:聴くことの不安から自分自身を落ち着かせ、自分自身の感情世界の中で、そしてそれにもかかわらず、存在するようになること。私たちはステレオで聴くこと、他者の経験に同時に耳を傾けながら自分自身の経験をスキャンすることについて話してきました。そして、私たち自身の経験依存的な感情発達によってセラピストとして制限されていること、そして誰も私たちに調和していない方法で他者に調和することはできないという痛ましい現実に触れてきました。
この章を締めくくるにあたり、私は数ページ前に始めたところに戻り、友人のジーナが心に浮かびます。彼女は他者の感情に深く、ひるむことなく耳を傾けました。それは、時間をかけて自分自身の感情に開かれる作業を行ったからこそ、彼女ができることであり、彼女自身でいられることでした。深く聴く技術。ジーナはそれを持っていました。次の章では、これが実践においてどのように見えるのか、そしてそれが何を必要とするのかについて、ゆっくりと明確に進めていきたいと思います。
しかし前奏として、その科学について進めていきます—正確には、精神力動的心理療法士として私たちが行っていることの神経科学についてです。これは一部の人には刺激的でしょう;私にとってはそうです!私にとって、これは、精神力動的実践において、そうでなければある意味で、高尚で説明できないように思われるかもしれないことに正当性を加えます。
3 その科学
私たちは、最初はフロイトやウィニコットのような精神力動的理論家から、しかしより最近ではシーゲル、ショア、ダマシオ、パンクセップなどの対人神経科学者から、調和のとれた聞き方のプロセスが、私たちの耳や左脳の言語解読メカニズム以上のものを含むことを知っています。深く聴くことは、話された言葉をはるかに超えています。そうでなければならないはずです。私たちがお互いに話す言葉は、コミュニケーション交換における意味の約3分の1しか占めていません(ホーガン&スタッブス、2003)。そして、より大きな部分である他の部分があり、それはしばしばはるかに重要な負荷を運んでいます。私たちはどのようにしてそれを聴くのでしょうか?
特に心理療法士として、話されていない—あるいは時には他者によって実際に感じられてもいない—部分に「チューニングする」方法を知ることが重要です。心理療法における明示的な言語交換の中、背後、あるいははるか下に横たわる、時には深く埋もれた感情的な発露にどのようにアクセスするのでしょうか?これは捉えどころのない追求に思えるかもしれませんし、実際そうです。しかし、それは重要なものです。なぜなら、もしこれを捉えなければ、心理療法士としての私たちの仕事の真の目標である感情的真実を見逃す可能性があるからです。
脳科学が急速に発展しているこの最近の時代において、私たちはこのやや高尚な「チューニング」プロセスの根底にあるいくつかのメカニズムを理解し始めています。これが重要なのは、その科学がその技術の神秘性を解消するのに役立つからです。(もちろん、完全にではありません。)科学的な全体像はまだ出現し始めたばかりで、完全にはほど遠いものです。しかし、過去10年ほどの間の神経生物学的研究と先進的な画像技術は、心の感情的な基盤についての私たちの理解を指数関数的に増大させました。そして、現時点で私たちが知っていることは、深く聴くことについての臨床的な会話を進める上で、私たちの基盤を固めるのに役立ちます。したがって、この章では、深く聴く仕事のための私たちの神経学的装備の簡単なツアーを行います。まず簡単な全体像を見て、次にもっと近づいてよく見てみましょう。
下から上へ、内側から外側へ、最も原始的なものから最も進化したものへ、私たちには3つの主要な脳領域があります。
最下部は脳幹—橋、延髄、中脳—で、これらは私たちを生かし続ける基本的な機能をコントロールしています:意識、呼吸、心拍、血圧など。また、脳幹と分類されるのは小脳で、バランス、協調性、学習された動きを担当しています。脳幹の上に構築され、脳の中央部にある2番目の主要領域は、辺縁系(海馬、扁桃体、帯状回、歯状回)、間脳(視床と視床下部)、基底核(尾状核、被殻、淡蒼球、黒質)、および液体で満たされた衝撃吸収する脳室を含む広大な皮質下領域です。この中間領域は一般的に、感情、学習、記憶、随意運動と関連しています。3番目で最上部(そして最外部)には、「思考脳」があります:大脳皮質で、その下には髄鞘化された白質があり、その上には複雑に入り組んだ灰白質があります。私たちは皮質を2つの半球(左と右、それぞれの言語的および非言語的機能を持つ)と4つの葉に分けます:前頭葉(前頭前野、運動前野、運動野の細分化)、頭頂葉(一次感覚機能を担当)、側頭葉(聴覚処理と記憶)、後頭葉(視覚処理)。
より詳しい考察
さて、感情的な存在としての私たちを担当する神経領域をより詳しく見てみましょう。感情を(皮質レベルの)右脳や、辺縁系や視床下部などの皮質下構造と関連付けることは正しいのですが、私たちの感情的構造は実際には脳の最も深い中心部へとさらに下方に到達しており、脳幹にまで及んでいます。そう、私たちの感情的経験の発生において最も基本的な心の部分は、脳の最も深いレベルにあり、意識的で、思考する、意図的な自己よりずっと下にあるのです。
翻訳で言えば、
まず最初に
An Acquired Art
があって、
習得すべき技術
習得される技術
との案があったが、
身についた技芸
身についた技法
くらいがよいかと思った。
The Art and Power of Listening-Deeply
については、
聴くことの芸術と力—深く
との案であるが
深い傾聴の技芸と効果
くらいだろう
artはartであって、日本語にしろと言う方が無理だ。アートとしたほうがいい。
妥協として、芸術と技術の中間くらいで、技芸を提案した。
The Science of It
その科学的根拠
これも困るが、自然科学的考察ということだけれど、
artとscienceの対比が背景にあるんだろう
そう考えると、難しくなる
サイエンス オブ イット として、ああそうかと思ってもらったほうがいい
そう考えると、あちこちにそんなことがあって、
日本語しか分からない人には結局分からないなあと思うこともある
翻訳は細かいところまでは伝わらない
むしろ、日本語で語る、英文をもとにした、何かというあたりで、
翻案と言うほど離れてもいないけれども、
曲線を直線で近似するような
別の話ではないが、ぴったりではない、そんなもの
円を正20角形で近似するような感じ。
怠惰になると正方形で近似していて、困ったものだけれども、
まあ、仕方がない。
ーーー
Listening-Deeply
と出ていたので気になったが、
Listening はたいていいつもよい方針だけれど、
Listening-Deeply は、当然であるが、場合による。侵襲的すぎる場合がある。
それを言えば、
Listening だって、時には病理促進的に働いてしまう場合もあるのだから、
注意しなければならないのである。
この辺りは、学部一年生に言うのと、院一年生に言うのとは内容が違う。