ヒトという種族は、あからさまに殺しあう。
動物は一般的に喧嘩もあるけれども、殺してしまうことはそんなに多くないような印象がある。
喧嘩しても、勝敗を決める儀式のようなものがあって、
それで勝ち負けを納得しているようだ。
クジャクなどは羽を広げて、勝敗を決める。
哺乳類では喧嘩した後、マウンティングの儀式をして、優劣を確認して終わる。
首を噛むけど、食いちぎるまではいかなくて、甘噛み態度のこともある。
人間の場合には、納得できない場合は、暴力をふるうし、最終的には殺人に至る。
この辺りは、やはり、本能が変質しているのではないかと思うところである。
古い人骨が発見されたりすると、発掘報告があって、頭蓋骨陥没が見られたり、あちこちの骨折が報告されたり、古代の人も大変な目に合っていたらしい。それが、自己によるものなのか、他人の暴力によるものなのか、明らかではない。
しかし、暴力の結果なのかなと推定される場合が多いと思う。
そんな人類であるが、文明が発達して、法制度も整え、警察も、刑務所も、軍隊も持って、リバイアサン的に、個々の人間が暴力で自己主張するのは危なくてしょうがないので、いったん、暴力は国家の管理にすることになった。
すると、暴力以外の部分で人と人は争うのであるが、言葉とか金の力とかで説得することになる。
文明はそこまで進歩したのであるが、時には、言葉で通じ合うことも無理、お金で解決することもできない、仲裁人の効果もない、そんな場面で、やはり暴力が噴出してしまう。
現代社会での暴力殺人はいいことは一つもなくて、だからこそ、予防的に効いていると思うのだが、暴力による損失を考えられなくなってしまうような状況はあるようだ。
これは暴力をふるう側の問題でもあるが、中には、振るわれる側の時事用もあり、他人との言葉による交流を全く拒絶して、あるいは、言語交流を完全に支配して、相手の立場を踏みにじり、自分の利益だけを考えている人もいて、その場合には、やはり、底流にある暴力が噴出する。
暴力は人間の本能なのかと言えば、そうでもないところもあると思う。動物全体を見渡してみて、捕食はあるものの、順位闘争のために同類を殺すことは本能ではないのではないか。
人間の場合、いつの時点からか、間違った本能が定着してしまい、文明の発達とともに抑制されてはいるものの、場合によっては露出してしまう。
法制度、警察、刑務所、軍隊などを支配する側から言えば、正直、やりたい放題であるわけで、それに対しての犯行は、暴力的に警察や軍隊に勝つしかないところまで行ってしまう。だから現代の権力者は強力である。怖いのは、側近の反逆。暗殺。その程度だろう。
人間はそんなに低級なわけではない。権力者は、権力の強大さに応じて、謙抑的にふるまうものである。それがかっこいいからだ。それが伝統だからだ。だから保守主義者は謙抑的だ。そして利他的だ。それが強者のふるまいであり、究極的にかっこいいからだ。利他的行為は自己愛を満足させる究極の方法である。
ところが最近は、自己利益を最大にするために政治に接近する傾向があり、いったいどうなっているのかと思う。
歴史という裁判所で、究極の賞讃を得たい。それが政治の志である。