人生の形

人生の形

歴史上の人物の物語などで、語る人の立場や時代によって、
随分と違う物語になることがあると思う。

自分の体験を他人に語りつつ、整理しようとするときも、
どのように語ったらよいのか悩むし、
聴く側も、どのように受け取ったらいいのか悩む。

例えば、花瓶の形を説明するときに、
下から見ると正三角形で、上から見ると円で、横から見ると四角だ、
1センチ刻みに水平に模様が入っている、
という説明で、おおざっぱに理解はできるが、
途中でなだらかに変化してゆく様子を言葉でうまく説明することは難しい。

実物を見れば、また、手で触れば、なるほどと実感できるが、
言葉で説明したり、下、上、正面などの写真で理解するのはすこし難しい。

写真やビデオならば、どのように光を当てるのかも考える。
撮影する角度も考える。

他人に説明するときや、自分で思い返すときに、
どちらかといえば、一枚の写真のように思い出し、
場合によっては、何枚かの連続写真のように思い出しているのではないだろうか。

数枚の写真から体験の全体を思い描くのは、結果が不安定になることがある。
どんな数枚の写真を提示するのか、そしてそれらをどのように解釈するのか、
そこに頭を働かせる余地があるし、考え直す余地もあるように思う。

写真で例えれば、角度や光線の具合を調整する余地がないか考える。

結局酸っぱいブドウのようになることもあるだろうが、
人生の意味が深まることもある。

このような作業はDSMとは違う領域の話になる。

何かの瞬間にぱっとひらめく。

風呂に入っているときとか、散歩しているとき、夜眠れないで横になっていて何か頭に浮かぶとき。

一枚の写真は違う景色になり違う表情になり、違う意味を帯びる。より複雑な意味、といってもよい。

ーー

語る側としても、意識的な場合もあり、意識的ではない場合もあるだろうが、色々と取捨選択しているはずで、
体験を語ることは、語るごとに変化するものだろうと思う。
聴く側も同じ。

こんなにも不安定で、手探りな感じのことであるが、多少の実りもある。

ーー

脳の中で何が起こっているのかを考えれば、
新しく神経接合ができていることもあるが、余計な神経接合が整理されて消失することで、
意味付けが変化しているのかもしれない。
それならば単純化ではないかと考えるかもしれないが、
過剰な単純化が消失するとも考えられる。

多分、脳神経細胞は、余計な神経接合を作りすぎるのではないか。
それを少し整理して消していくことがよいのかもしれない。

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