ヤスパースの『精神病理学総論』における中心概念のひとつである 「了解(Verstehen)」と「説明(Erklären)」の区別
🔷 ヤスパースにおける「了解」と「説明」――精神病理学の二つの認識形式
■ 基本概念の定義
用語 | ドイツ語 | 意味・特徴 |
---|---|---|
了解 | Verstehen | 主観的な意味内容の把握。内面的共感・直観によって「なぜそうなるのか」を理解する方法。 |
説明 | Erklären | 客観的な因果関係の解明。統計・生物学・物理的要因によって「どのようにそうなるか」を明らかにする方法。 |
■ ヤスパースがこの区別を導入した理由
精神病理学においては、心の現象を扱う必要があります。
ところが、物理学や生理学のように**「原因=結果」の因果関係だけで記述するには限界**があります。
● たとえば:「なぜAさんは妄想を抱いたのか」
→ 血流の異常?脳内化学物質の変化?それとも人生の意味喪失?
ヤスパースはこの問いに対し、「説明」では足りず、「了解」が必要だとしました。
■ 両者の違いを表にすると:
観点 | 説明(Erklären) | 了解(Verstehen) |
---|---|---|
アプローチ | 客観的・科学的 | 主観的・共感的・意味志向的 |
手法 | 実験・観察・統計 | 共感的直観・現象学的記述・伝記的理解 |
対象 | 原因と結果の関係(例:薬物→幻覚) | 心の流れ・意味の連鎖(例:裏切られた→不信→妄想) |
学問の類型 | 自然科学(自然法則) | 人文科学(歴史学・哲学) |
例 | 「ドパミン過剰→幻覚」 | 「妻の裏切り→深い不信→誰かに監視されている」 |
■ 実例:統合失調症の妄想を例に
🧪【説明的アプローチ(Erklären)】
- 「妄想」は脳内ドパミン過剰によって生じる。
- MRIでは海馬の萎縮が確認される。
- 薬物療法(抗精神病薬)によって症状は軽快する。
➡ 科学的には整合的であるが、「なぜ彼はその妄想に囚われたのか」という“意味”は捉えきれない。
🔍【了解的アプローチ(Verstehen)】
- 彼は職場で孤立し、家庭でも信頼を失った。
- 周囲の会話やテレビの声に「自分への非難」を感じるようになった。
- 「誰かに監視されている」という妄想は、「社会に居場所がない」という絶望感の象徴だった。
➡ 妄想は**意味ある“主観的表現”**として理解される。
➡ 医師はこの意味連鎖を「了解(Verstehen)」することで、単なる“症状”ではなく“体験”として患者を把握する。
■ ヤスパースの意図と意義
✅ 了解の価値:
- 患者の主観的世界に入っていく姿勢が治療関係を築く。
- 「狂気」も人間的経験であるという実存的視点を導入する。
✅ 説明の価値:
- 科学的治療(薬物療法・診断分類)を支える実証的根拠になる。
✅ 両者の統合的使用:
ヤスパースはどちらかを否定したわけではありません。
「了解だけでは科学にならず、説明だけでは人間を扱えない」と考え、両者の統合的使用を提唱しました。
■ 臨床への応用例
症例 | 説明的理解 | 了解的理解 |
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Aさん(統合失調症) | 脳内ドパミン過剰→幻覚 | 孤独と恐怖から、世界が敵に見えるようになった |
Bさん(うつ病) | セロトニン低下→抑うつ症状 | 自己価値の喪失、「自分が役に立たない」という意味付け |
Cさん(PTSD) | 扁桃体過活動→過覚醒・フラッシュバック | トラウマの記憶が意味を持って“今ここ”に現れる |
■ フッサール現象学との関係
ヤスパースの「了解」は、フッサール現象学(eidetic intuition=本質直観)やディルタイの理解心理学の影響を受けています。
患者の語る世界を“異常”として片づけるのではなく、**「その人にとっての真実として記述する」**ことが重要とされます。
■ 精神療法における意義
- 了解的関係を築くことは、CBTや精神分析、ナラティヴ療法にも通じる。
- 「症状」だけでなく「物語」「意味」「生き方」として捉える枠組みを与える。
- 現代の「リカバリー志向」「対話的精神医療」の源流ともいえる。
🔚 まとめ
ポイント | 内容 |
---|---|
ヤスパースは精神病理学を「理解」と「説明」に二分した。 | |
「了解(Verstehen)」は、患者の主観的意味世界を共感的に読み解く方法。 | |
「説明(Erklären)」は、生物学的・統計的因果関係に基づく科学的アプローチ。 | |
両者は対立するのではなく、相補的であるべきとした。 | |
精神科医はこの両方を使い分けて、人間としての患者を治療・支援する。 |