人間の脳のはたらきとして、法則抽出知性と、写真記憶的知性とを対比させて考えることがある。
生きていていろいろと体験したり観察したり人の話を聞いたりして、
その中から、法則を抽出する脳の働きがある。
たとえば、ピタゴラスの知性はそんな感じ。
物事の奥に隠された法則や規則や原則を探り当てる能力。
ニュートンの物理法則の話とか、数学の話などは、いまだに人間知性の栄光の一場面である。
またたとえばダーウィンの進化論も、事象の背後にある原理原則を抽出して見せた。
また、マルクスの仕事なども、歴史の変化の原則を抽出して見せたものだろう。
こんな方向の知性の働きを法則抽出知性としておこう。
一方で、歴史物語を読むとき、そのような原理原則に集約されるようなものを求めて読むものでもないだろうと思う。
長編小説などはテーマはあると思うが、それは物語の要約を教えてもらえばわかるようなものかもしれなくて、小説を読む体験を人々が好むのは、読む時間そのものにあるのであって、速く読めば偉いとか、短く要約できれば偉いとかというものではないだろう。
こんな方向の知性を物語的知性と呼んでおこう。
音楽体験もそのようなものだろう。時間軸に沿って、音楽が展開されるのを体験するのであって、それを要約してしまったのでは、普通に言う、音楽体験ではない。
演奏されない場合でも、楽譜を読んで、同じような時間的体験をすることもあるだろう。
中には特殊な能力の人がいて、楽譜を見て、時間的要素は関係なく、短時間ののうちに、その音楽の何かを感じることがあるのだと思う。この場合には、音楽体験における、法則抽出知性に近いかもしれない。
絵画を鑑賞する場合、ぱっと見て、きれいだなとか思ったりするのが普通だろう。
これを物語的知性の形式で体験するとすれば、
画家が、どんなものをどんなふうに描こうとしたのか、描く時間的手順を再現して体験するような味わい方もあると思う。
だいたい、こんな景色に感動したらしい、それをこんな風にデッサンしたらしい、それをこんな風に書き直したかもしれない、そして色彩については、最初はこんなふうに色を置いたけれども、こんな変化を試みたのではないかなど、画家が要したに時間ほどではないにしても、その過程を再体験するようなこともあるのではないだろうか。
ナラティブとか言われている領域があって、うまく伝わらないようなことも多いのであるが、一面としては、人間の知性の働きとして、このような方面もあるのではないかと思う。
歴史の本とかはとても複雑で果てしなく細かく具体的で、それを楽しんでいるようなところがあるのだろう。
法則抽出知性はその中から法則とか原理を発見しようとするだろう。
物語的知性の領域には、写真記憶的知性があると思う。
かなり複雑な情報の塊があったとして、それを理解する方式にはそれぞれの脳で違いがあると思う。
上記のように法則を抽出して理解するようにすれば、脳の記憶スペースの節約になる。普通はそれを「理解」と呼んでいると思う。
しかし、歴史を覚えているという場合、法則を理解していて、そこから事実を展開している場合は少ないだろう。脳の記憶スペースがある程度余裕があるから、格納できるのだと思う。
記憶スペースの余裕にはそれぞれの人で違いがあるから、高校の世界史や日本史の試験などは、差が生まれるのだろう。物覚えがいいとか、忘れにくいとかの特性があるのだろう。
ここで特殊な場合を考えると、「理解していないのに記憶している」場合があるだろう。
このような記憶を写真的記憶と呼んでよいと思う。
世界史の教科書の100ページくらいを、写真にして脳に格納しておけば、必要に応じて、その部分を読めばよいだけであるから、「理解していないが記憶している」状態である。
そのような子供はたまにいて、神経発達障害の一つのタイプとか、甲状腺機能障害の場合とかで見られることがある。
AIなどもある面では、そのような系統といってよいように思う。
記憶可能なものが、どの程度に複雑で詳細であるか、量が膨大であるか、それはそれぞれの脳の状態による。しかし理解を伴わない記憶というものは可能であるように思う。
こうして概観すると、
・法則抽出知性
・物語的知性
・写真記憶的知性
と並べることができる。
「要するにどういうことですか」という問いに答えられるのが、法則抽出知性である。
写真記憶的知性は、要約は困難だが、具体的細部について、いくらでも詳細に答えられる。
物語的知性は、写真ほど詳細ではないもので、時間的要素を伴うものともいえるかもしれない。
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電車で小学生が通学の途中で、分厚い物語の本を読んでいるのを見かける。
大河歴史ドラマを50話くらい見たりもするのだろう。
そのような体験の中で、法則的知性と物語的知性が両方働いている。
歴史の解説などでは、説明する人がどのような立場であるか、分かる場合がある。
・具体的な歴史の背景にある法則を見つけて解説しようとする態度。勇気のある試みであるが説得力については問題があり、政治的立場によって理解や評価が異なることもある。
法則まではいないとしても、その場面の歴史的事実の説明として、勢力の力学的分析をして見せる態度。
・歴史をただ物語として、語る態度。たまに人生の教訓を語ったりもする。
・写真のように、詳細にただ語る。郷土の歴史、会社の歴史などはこのようなものかもしれない。
そうなると、歴史の試験問題は、かなり異なった観点で出題することができそうである。
勿論、法則や勢力の力学的分析については、政治的立場が影響することがあり、問題になることもある。
それを回避するには、写真的記憶を問うことが簡易である。その詳細さで点数に差をつければよいのだから、ある程度評価の客観性も保持できる。
そんなわけがあって、歴史教育の場面で、理解を深めることの難しさがあるのではないかと思う。
何とか事件の時の王様は誰でしたかとか、子供のころの社会の問題だと思うが、そんな知識は、基礎として大切ではあるだろうが、その意味とか理解とかが大切なのにとも思う。ところがその部分は時代により地域により、異なった語られ方をするので、その部分は遠慮しておきたいということになり、結果して、何のために勉強しているのか、意味が分からないということにもなるのだろう。学校で何を教えるのかという問題にもなる。
その点では数学などは政治的立場にはよらないので、分かりやすいともいえる。
しかし数格は道具的側面があって、高校でも大学でも物理学に役立つ数学という側面が強いと思う。物理学に役立つ数学を着々と教えているのだと理解できる。極端に言えば、量子力学を理解するための道具を高校や大学教養課程で教えているように思う。
数学そのものでいえば、論理学とか公理的体系とか集合論があるのだろうが、その部分はすでに破綻が言われていることもあり、ちょっと触れるだけで終わるのかもしれない。