1.序論

1. 序論

本稿の目的と背景


精神病の軽症化と診断の曖昧化

統合失調症とうつ病は、精神科領域において伝統的に大きな診断的意義を持つ疾患である。しかしながら、近年の精神科臨床では、その両者の境界がかつてないほど曖昧になっている。幻覚や妄想を主症状とする典型的な精神病像は減少し、より微細で持続的な自我障害、不安、対人過敏、抑うつ感といった**“軽症精神病”**とも称される症候群が主訴として浮上する例が増えている(van Os et al., 2009)。

例えば、20代前半の大学生が「周囲の視線が気になる」「考えが読まれている気がする」といった曖昧な被影響体験を訴え、同時に不眠・抑うつ気分・希死念慮も抱えているケースでは、初診時にうつ病と診断されることが多い。しかし経過観察の中で、明確な妄想的世界観や社会機能の急激な低下が明らかになると、統合失調症に診断変更されることは少なくない。発症初期の非特異的な症状群は、どちらの診断にもあてはまりうる曖昧さを持つ。


薬物療法の相互乗り入れと診断モデルの揺らぎ

近年の薬物療法の進展も、診断の境界をさらに曖昧にしている要因である。非定型抗精神病薬の登場以降、これらは統合失調症のみならず、双極性障害、さらにはうつ病への増強療法(augmentation)としても広く用いられるようになった(Nelson & Papakostas, 2009)。アリピプラゾールクエチアピンは、すでに米国FDAでうつ病への適応拡大が認可されており、実際の臨床においても、抗うつ薬に反応が乏しい症例への併用が一般的になっている。

その一方で、抗精神病薬の投与によって抑うつ症状が軽減した場合、それが「統合失調症に対する治療効果」なのか「うつ病に対する増強効果」なのか、診断学的な裏付けが極めて困難となる。結果として、診断が治療選択に従属するという現象が現場でしばしば観察されるようになっている。


発達障害との鑑別の困難さ

自閉スペクトラム症(ASD)や注意欠如多動症(ADHD)といった神経発達症との鑑別も、統合失調症とうつ病の診断的曖昧さに拍車をかけている。思春期から青年期にかけてASDの背景を持つ患者が、不安、不登校、希死念慮、思考のこだわりを訴えて受診するケースは多い。こうした症例では、抑うつ障害と初期の統合失調症の臨床像が重なり合うことも多く、どちらを優位とみなすかが診断上のジレンマとなる(Klin et al., 2005)。

特に、**「考えが止められない」「頭がうるさい」**といった訴えが、ASDの過集中傾向によるものか、あるいは統合失調症の思考化声や思考奔逸の一部なのかを判断するには、十分な経過観察が不可欠である。


適応障害の“診断的包摂”とその限界

適応障害という診断カテゴリが臨床で広く用いられているが、実際には初期のうつ病や統合失調症の症状が含まれていることが少なくない。DSM-5では、ストレス因を中心とした反応性障害として位置づけられているが、その実態は必ずしも一様ではない。

たとえば、ある30代女性が職場でのハラスメント後に不眠と意欲低下を訴えて受診し、当初は「適応障害」と診断されたが、数週間後には明確な抑うつ気分と自己否定的妄想が出現し、うつ病エピソードと診断が変更されたケースがある。また、被害念慮や対人緊張が経時的に強まることで、最終的に統合失調症と診断されるケースもあり、適応障害というラベルが“仮診断”として機能している現実がある。


外来診療の普及と「まずうつ病から」の傾向

今日の精神科医療の主軸は、急性期病棟や精神科病院から外来中心へと大きく移行している。限られた時間と情報の中で診断と治療の方針を立てる必要があるため、DSM的な操作的診断を基盤とし、「まずうつ病と診断して経過を見る」というアプローチが実際上主流となっている(First & Pincus, 2002)。

このような枠組みは、即時的な治療導入や患者との協働に資する一方で、診断の仮定性を見失わせるリスクも孕んでいる。誤った初期診断が治療選択を規定し、病態の理解を固定化することで、真の診断や病理にたどり着く機会を逸することもありうる。


本稿の目的

以上のように、統合失調症とうつ病という二大診断は、現代の精神科診療の中で多くのグレーゾーンを抱えている。本稿では、こうした状況を踏まえ、両者の関係性について歴史的・理論的・臨床的・治療的側面から多面的に再検討し、現代における精神疾患の捉え方とその変遷を明らかにすることを目的とする。

具体的には、以下の観点から構成を行う。まず歴史的な診断体系の変遷とそれが両者の関係性にどのような影響を与えてきたかを確認し(第2章)、次に単一精神病論やスペクトラム仮説を通じて理論的背景を整理する(第3章)。その後、非定型精神病や統合失調感情障害といった診断の曖昧領域を取り上げ、うつ病と統合失調症の臨床像と相互乗り入れを比較検討しつつ(第4章以降)、現在の診療実践の在り方とその今後の展望を論じていく(終章)。

参考文献(第1章「序論」)

  • First, M. B., & Pincus, H. A. (2002). DSM-IV-TR Guidebook. American Psychiatric Pub.
  • Klin, A., Pauls, D., Schultz, R., & Volkmar, F. (2005). Three diagnostic approaches to Asperger syndrome: Implications for research. Journal of Autism and Developmental Disorders, 35(2), 221–234.
  • Nelson, J. C., & Papakostas, G. I. (2009). Atypical antipsychotic augmentation in major depressive disorder: a meta-analysis of placebo-controlled randomized trials. American Journal of Psychiatry, 166(9), 980–991.
  • van Os, J., Linscott, R. J., Myin-Germeys, I., Delespaul, P., & Krabbendam, L. (2009). A systematic review and meta-analysis of the psychosis continuum: Evidence for a psychosis proneness–persistence–impairment model of psychotic disorder. Psychological Medicine, 39(2), 179–195.
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