第二話「歌えません」
十一月になると、診察室の西日はさらに角度を落とした。同じ時刻なのに、光が届く場所が変わっていた。K医師はそれに気づいたが、特に何も思わなかった。
A.S.さんは今月は時間通りに来た。先月と同じ紺のコートだったが、中にセーターを着込んでいるせいか、少し厚みが増して見えた。
「先月、何か一つ覚えておいてきてください、と言いましたが」
「はい」A.S.さんは少し背筋を伸ばした。「覚えてきました」
「聞かせてもらえますか」
「通勤電車の中で、ふと、これは何のためにやっているんだろう、と思ったんです。仕事のことじゃなくて、電車に乗ること自体が、です。変ですよね」
「変じゃないと思います」
「毎日乗っているのに、急にそう思って。で、答えが出なくて、次の駅に着いたら忘れました」
K医師は少し間を置いた。
「答えが出なかったことを、今こうして話している」
「……そうですね」A.S.さんは首を傾けた。「忘れたと思っていたのに、覚えていました」
その日の診察の中頃、K医師はACTの脱フュージョンの話をした。思考と自分を切り離す、という考え方だ。説明しながら、K医師はいつものやり方を試みた。
「A.S.さんは、『私はダメな人間だ』という思考が浮かぶことはありますか」
「……よくあります」
「その言葉を、歌にしてみませんか。どんなメロディーでもいいので」
少し間があった。
「……歌えません」
「なぜですか」
「恥ずかしいし、そんなことで何が変わるのかわからない」
K医師は内心で少し止まった。止まりながら、別のことを一瞬考えた。以前の患者のことだった。名前ではなく、あのときの空気として記憶していた。エクササイズを断られた後、何かがうまく噛み合わなくなっていった、あの感触。自分は急ぎすぎたのだと、後になって思った。後になってからしか、思えなかった。
K医師は急がなかった。
「では、歌わなくていいです。その言葉の前に、『私の心が言っている』をつけてみましょう。声に出さなくていい。頭の中だけで」
A.S.さんはしばらく黙っていた。やっているのかどうか、K医師にはわからなかった。
「……やってみました」
「どうでしたか」
小声で、A.S.さんは言った。「私の心が、私はダメな人間だ、と言っている」。それから少し間があって。「なんか、他人事みたいで、変な感じです」
「それでいいんです」
A.S.さんは何か言おうとした。言葉が来る前に、表情が少し動いた。笑いに似た何かが、ほんの一瞬、顔をよぎった。しかしそれは笑いになる前に、引っ込んだ。A.S.さん自身も気づいていなかったかもしれない。
K医師は気づいたが、何も言わなかった。
診察が終わり、A.S.さんがコートを着る間、K医師は次回の予約票を用意した。
「来月も、何か一つ、覚えておいてきてください」
「同じことでいいですか。また変なことを思うかもしれないので」
「もちろんです。変なことの方がいい」
A.S.さんは少し考えるような顔をした。「変なことの方がいい、というのは、どういうことですか」
K医師は少し考えた。正確に答えようとすると、長くなる。長くなると、今日の余韻が別のものになる。
「今日帰りながら、考えてみてください」
A.S.さんは頷いた。納得したのか、保留したのか、K医師にはわからなかった。おそらく保留だった。それでよかった。
ドアが閉まった。
その夜、K医師は帰宅してから、しばらく何もしなかった。テレビもつけなかった。
伝わったのかどうか、わからない。
そう思った。しかしすぐに、別のことも思った。「私の心が、私はダメな人間だ、と言っている」と小声で言ったとき、A.S.さんの声は、最初に診察室に入ってきたときとは、少し違っていた。何がどう違うのかを言葉にしようとすると、するりと逃げた。
でも、何かが少し動いた。
それで十分かもしれない、とK医師は思った。十分、という言葉が正確かどうかは、わからなかった。ただその言葉が、その夜の自分には一番近かった。
