報道される行為と報道されない行為の類似

最近報道される犯罪に、主に若者が、報酬の高さに惹かれて得体のしれない人間からの通信アプリの指示に従い、高齢者を殺害し強盗するに至るものがある。

これを人々が理解しがたいと考えるように、また今後若者が誘惑されてはいけないと感じるように、報道が作られている。

しかし類似のことはたくさんある。
主に立派な企業の正社員が、報酬と地位を求めて、資本主義的、なかでも新自由主義的要請を受け入れ、上司の命令に盲目的に従い、法律に反していないことを言い訳に、顧客に対して人を人とも思わない仕打ちを与える、そのような例がある。本人たちは平気である。言い訳もある。反省していない。法律に守られ、資本主義的「倫理」に守られている。

例えば、立派な金融機関の立派な社員が、顧客である高齢者の預金を把握していて、そのうちのいくらかを、投資に誘い、あるいは保険商品を契約させ、署名させ印鑑を押させる、契約内容は非常に細かな字で印刷され高齢者は読むはずもなく、社員はそのような商行為をして恥じることなく、指摘されれば、「当行にそれだけの預金があるということは、複数他行にも同程度の預金があるものと推定され、だとすれば、その中のいくばくかを、預金以外の形の商品として保持することに、特に支障はないはず、低金利時代で銀行も苦しいのだと上は言っている、だから生きるために多少のことはやるのがお互い様だ、常識の範囲内だ」などと言い訳をする。

冒頭の例と類似であるが、上記例はあまりに日常的になり、法律には抵触せず、情報に弱い人が多少の損をするのは仕方がないと言うばかりで、報道もされず、内部的反省もなく、沈黙のままで過ぎてゆく。

あるいは、立派な報道機関の立派な正社員が、ある権威筋の報道案件を、党派的色彩の濃い内容で読み上げ、目を吊り上げ、強い口調で、何日も何日も続ける。その異様さに気付かないのか、十分に気付いていてそれでもやっているのか、自分は正しいことを伝えていると本気で思っているのか、正しさなどどこにもないのだと相対主義的虚無なのか、いずれにしても理解し難い。

フランクルの言う生きることの「意味」、行為の「意味」は「連帯」がなければ成立しないと私は思う。孤独という真空の中では意味が発生しない。しかし、連帯しようとすれば、そこに詐欺すれすれの商売人たちが列をなして待ち構えている。人を信用したいと思う心の自然な傾向を利用して踏みにじる。

マクロに見れば、我々の「国債借金まみれの貧しい」社会は、医療と命を削減し、殺人武器で儲ける方向を選択した。その巨大な選択と、日々の報道に現れる人々の行い、つまり、ミクロな現象としての犯罪者、犯罪未満者、報道者はみな連動している。

秘匿性の高い通信アプリに従う寄る辺ない若者と、殺人兵器と呼ばないが中身は同じ防衛装備品を作って売る兵器製造会社正社員と、言い訳は同じである。

ということは、秘匿性の固い通信アプリを使っての心理操作と同等のプロセスが資本主義の中心部で起こっているということだ。また、報道の先端部でも生起しているということだ。集団心理操作はここまで進行している。操作していると思っている人々も深く操作されている。

お互いにお互いを頽落させていて、真犯人は判別しにくくなっている。実行者を名指しすることはできるが、その背後にいる全員が関係者である。

われわれはこの倫理的退廃を見過ごしていてよいのだろうか。これも神の摂理の一部なのだろうか。

歴史を振り返れば、どの時代も地獄は満杯で、起訴猶予ばかりが多いのだった。

こうした、見えにくい、社会全体によって保護された加害性も、原罪の一種なのかもしれない。

この「重力」のなかで生きるしかない、人間という存在。

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神よ、私たちは自分が何をしているのか、分かりません。

行為の原因を知らないでいます。

行為の結果を知らないでいます。

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