フランクルの本のトランス体験性

フランクルの本は大好きだし、価値もあると思うし、だけれども、
トランス体験には届かない感じがする。

そんなものを求めなくてもいいだろという感じはするのだが、
ブーバー「我と汝」とか
井筒俊彦『意識と本質―精神的東洋を索めて』
で感じたトランス体験がない。

例えばで掲げたこの二書が本当にトランス体験に値するのかと言えば、
今から考えれば個人的な発達段階に依存する体験だったような気もする。

しかし、要約できない、体験として、いまも確実に私の心に残っている。

フランクルの本は素材からしてもトランス体験に近接したものと思うのだが、
それは個人的にはなかった。
不思議な感じがする。

ロゴスが強すぎたせいなのだろうか。どうか。やはり私個人の発達時期との関係だったのか。

私の読書体験の質を考えて、このトランス性は重要だと思っている。

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