人間が言葉を使う。
言葉は目の前にある現実を写し取るものとして使われることが最初であったと思う。
ウサギがいる、捕まえろ。熊が来た、逃げろ。あっちの木にクルミがある。こっちにこい。あっちに行け。あいつを呼んで来い。槍を投げろ。
しかし、まず、間違いを言うようになる。そして間違いは、物理的現実としては効力を持たないが、相手または集団に対しての影響力を持つことを発見するようになる。
間違って、ウサギがいる、捕まえろ、というとき、実際にウサギは捕まえられない、しかし、他人を動かす力になった。意図的にそのような言葉の使い方をすることで、人を動かす力を手に入れたことになる。
また、未来のことについても、間違ったことを言えば、物理的な効力はないが、集団の中での力を発揮できたこともあった。そのような言葉を意図的に使えば、人々を支配できる。
嘘が典型的である。物理的対応物は存在しないが、他人を動かすことができる。自分の立場を有意にすることができる。
つまり、物理的現実を指し示す記号としての言葉から、物理的対応物の有無を問わず、他人に対する影響力を目的とする言葉が成立する。
また、物理的対応物を持たない、抽象的カテゴリーの言葉も存在するようになる。それを人間集団が共有することでどなんな利得があったのか不明であるが、そのような一群もある。
また非在を示す言葉も使われる。戦争がないという意味での平和など。
このように言語の使用が拡大するにつれて、精神病との関係が問われるようになる。
幻聴や被害妄想、または各種妄想。
それらは、大雑把に言えば、物理的対象物がない。しかし個人的に、また集団的に有効な言葉だったこともある。
それは個人的な超能力、または超自然的な力という解釈だったのではないだろうか。
いつ種を撒けとか、田んぼの水をどうしろとか、熊には何を食べさせなさいとか、いずれにしても、集団内での命令者になった。
幻聴や妄想がいつもそのような生産なものではないが、いつもの調子でいろいろなことを言ったかもしれない。
精神病者が現実の裏付けのないことを語ることと、他人を動かすために嘘を混ぜることと、区別があって、精神病者の言葉の方が神聖だったのではないだろうか。嘘つきも、未来に関する嘘ならば、解釈の違いということでいいわけができる。過去に関しての嘘ならば、ましてや多くの言い訳ができる。
強迫性障害から始まった儀式が集団に共有されることもあっただろう。被害妄想が集団内で固定化されて宗教の形をとっていったかもしれない。
特に、埋葬などは、未来に対しての考え方なので、妄想が入り込みやすいところで、何によっても否定されにくい場所でもある。
人々はこう考えた、来世について、埋葬について、しかしそれは、最初は個人の精神病理に始まったものではないかとも思う。
ーーーー
こうして、言語の機能を考えた時、現在はどうかと考えて、Fusionなどを考える。
