では 第二部「真空」第2章(=第7章)「祖母の声、空白に触れる母語」 を、
これまでの文体・深度・テーマ(ベイユ的「真空」)を保ちながら、
本編として成立する長文(約2300字) で執筆します。
第6章で“空白が開いた”主人公が、
この章で初めて 母語(上海語)に触れ、空白がさらに深まる瞬間 を描きます。
◆ 第二部「真空」
第7章 祖母の声、空白に触れる母語
(約2300字)
祖母の家に向かうタクシーの中で、
私はずっと窓の外を見つめていた。
上海の街は、どこまでも続くように広がっていた。
高層ビルの間を縫うように走る車、
赤い看板、漢字のネオン、
そして、どこからともなく聞こえてくる上海語。
その音は、
私の知らないリズムで世界を満たしていた。
母は運転手と話していた。
その声は、
日本で聞く母の声とはまったく違っていた。
少し低く、
少し速く、
そして、どこか誇らしげだった。
私はその声に胸の奥がざわつくのを感じた。
母の声が、
私の知らない“母語”に変わっていく。
――私は、この人の娘なのに。
その事実が、
急に遠く感じられた。
タクシーが古い住宅街に入ると、
母は窓の外を見つめ、
懐かしそうに微笑んだ。
「もうすぐよ」
その声は、
日本で聞く声よりもずっと柔らかかった。
車が止まると、
母は深呼吸をしてから降りた。
私はその後ろに続いた。
古い集合住宅の前に立つと、
母はインターホンを押した。
しばらくして、
スピーカーから年配の女性の声が聞こえた。
「阿拉来啦?」
その声は、
私の胸の奥に直接触れてくるようだった。
母は笑顔で答えた。
「妈,是我。带了李来。」
その瞬間、
私の中で何かが崩れた。
母の声が、
完全に“母語”になった。
私はその音を理解できなかった。
でも、
理解できないのに、
胸の奥が震えた。
エレベーターで上がり、
古いドアの前に立つと、
中から足音が近づいてきた。
ドアが開いた。
そこに立っていたのは、
小柄で、
白髪をきれいにまとめた女性だった。
祖母だ。
祖母は私を見るなり、
目を大きく見開き、
次の瞬間、
私の手を両手で包み込んだ。
「哎呀,小囡囡,来啦!」
その声は、
驚くほど温かかった。
私は言葉がわからないのに、
涙が出そうになった。
母が横で笑っていた。
「妈、她听不懂的」
祖母は驚いたように私を見た。
「听不懂?」
母は小さく頷いた。
「她不会上海话」
祖母は一瞬だけ悲しそうな顔をした。
でもすぐに笑顔に戻り、
私の手を引いて部屋の中に招き入れた。
部屋の中は、
どこか懐かしい匂いがした。
油と香辛料と、
古い木の匂い。
その匂いが、
私の胸の奥の空白に染み込んでいく。
祖母は私の顔をじっと見つめ、
何度も何度も頷いた。
「像,真像……」
母が笑った。
「说了吧,她跟你年轻的时候一样」
私はその会話を理解できなかった。
でも、
祖母の声が、
私の中の“空白”に触れているのを感じた。
言葉がわからないのに、
意味が伝わる。
それは、
重力とは違う感覚だった。
落ちるのではなく、
溶けていく。
私の中の“日本の私”が、
静かに溶けていく。
夕食の準備をしながら、
祖母はずっと上海語で話していた。
母も自然に応じる。
その会話は、
まるで歌のように流れていった。
私はその音を聞きながら、
胸の奥が静かに広がっていくのを感じた。
――私は、この言葉を知らない。
その事実が、
私の中に深い空白を作った。
でも、
その空白は苦しくなかった。
むしろ、
その空白の中に、
何かが入ってくる予感がした。
夕食のとき、
祖母は私の皿に次々と料理を盛った。
「吃,吃,多吃点」
私は笑って頷いた。
「谢谢……」
その言葉だけは知っていた。
祖母は嬉しそうに笑った。
その笑顔は、
私の胸の奥の空白を温かく満たした。
母が私を見つめていた。
その目は、
どこか複雑だった。
懐かしさと、
喜びと、
そして、
少しの痛み。
私はその目を見て、
胸の奥がまた揺れた。
――私は、誰なのだろう。
その問いが、
空白の中に静かに落ちていく。
重力は、魂を下へ引きずる。
でも、
真空は、魂の輪郭を溶かす。
私は今、
その真空の中にいる。
そして、
その空白の奥に、
まだ見えない光が潜んでいる気がした。
◆ 次に進むために
第二部の続きとして、以下から選べます。
- 第8章「蘇州の水路、沈黙の底にある空洞」
- 第9章「家系図の前で、私は“無”になる」
- 第10章「北京の空、母の青春の空白」
- 第11章(二重祈祷)
どれを執筆しますか。
