フロイトの著作「レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期の想い出」(Eine Kindheitserinnerung des Leonardo da Vinci, 1910年)は、実際の患者の症例分析ではなく、フロイトが精神分析の手法を歴史上の人物の伝記分析に応用した画期的な試みです。フロイトは、レオナルド・ダ・ヴィンチの芸術的才能、科学的探究心、そして謎めいた性格の根源を、彼の幼児期の経験、特に無意識の性的葛藤と結びつけて解明しようとしました。
この著作は、精神分析的伝記研究(サイコヒストリー)の最も有名な例の一つであり、芸術と精神分析の対話を示す重要な作品です。
以下に、「レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期の想い出」について十分に詳しく説明します。
フロイト「レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期の想い出」:天才の心理と無意識
1. 著作の背景と目的
フロイトは、レオナルド・ダ・ヴィンチというルネサンスの巨匠が、絵画、彫刻、科学、工学、解剖学など、多岐にわたる分野で並外れた才能を発揮しながらも、なぜ多くのプロジェクトを未完成のまま放置したのか、彼の謎めいた微笑みを持つ肖像画(特にモナ・リザ)に何が込められているのか、そして彼がなぜ生涯独身を通したのか、といった疑問に魅了されました。
フロイトは、これらの疑問に対する答えを、レオナルドの現存する伝記資料、特に彼自身が書き残した「幼年期の想い出」と、彼の芸術作品の中に精神分析的に見出そうとしました。
- 分析の動機: 偉大な天才の心理を精神分析的に解明することで、彼の創造性の源泉、行動パターン、そして性的指向の謎を解き明かすこと。
- 分析の方法: レオナルド自身の記述、伝記的情報、そして彼の芸術作品(絵画、素描など)に現れるモチーフを、フロイトの精神分析理論(幼児期の性欲、エディプス・コンプレックス、ナルシシズム、昇華など)を用いて解釈しました。
2. レオナルド自身の「幼年期の想い出」とフロイトの解釈
フロイトの分析の中心となったのは、レオナルドが残した唯一の「幼年期の想い出」の記述でした。
- 「鳶の夢」の記憶:
- レオナルドは、自身のノートに、揺りかごに寝ていた赤ん坊の頃に、鳶(トビ、またはハゲタカ)が自分に近づいてきて、口を開けさせ、その舌で口の中を何度も叩いた、という夢(あるいは記憶)のようなものを記しました。
- この記述は、フロイトの分析の最も重要な出発点となりました。
- フロイトによる「鳶の夢」の解釈:
- フロイトは、この「鳶の夢」が、レオナルドの幼児期の性的経験、特に母親による性的刺激を象徴的に表現していると解釈しました。
- 「鳶(Kite)」の誤訳と「ハゲタカ(Vulture)」の象徴: フロイトは、レオナルドが記した「ニビオ(nibbio)」というイタリア語を「鳶」と解釈しましたが、後に「ハゲタカ」と訳すべきだったという指摘がなされました。フロイトは、ハゲタカが古代エジプトの神話で「母性」の象徴とされていたこと(ハゲタカはメスだけで繁殖すると信じられていたため)に注目しました。ハゲタカが口の中を叩く行為は、母親の性器のシンボルである乳房やペニスへの言及、あるいは口唇的な性行為(オーラル・セックス)の象徴であると解釈しました。
- 「受動的な口唇的快感」: この記憶は、レオナルドが乳幼児期に母親から過度な口唇的快感刺激を受け、その結果として「受動的な同性愛的性格」を形成したことを示唆しているとされました。つまり、彼は快感を受け入れる側であり、与える側ではないという受動的な傾向を内面に持ったと考えました。
3. レオナルドの性格と行動の精神分析的解釈
フロイトは、この幼児期の経験が、レオナルドのその後の人生、性格、創造性に決定的な影響を与えたと説明しました。
- 私生児としての生い立ち: レオナルドは私生児として生まれ、生後間もなく実父の家に引き取られ、その後に実母のもとに一時戻り、再び父の家で育てられました。この幼少期の母親との不安定な関係が、彼の中に母親への深い愛着と同時に、母親を失うことへの不安、そして母親の姿を求め続ける心理を生んだとされました。
- フロイトは、彼の実母が、彼が私生児であることへの罪悪感から、レオナルドに対して過剰な愛情を注いだ可能性を指摘しました。この過剰な母親の愛情が、彼の「受動的な同性愛的性格」の形成に影響を与えたと考えられます。
- 同性愛の傾向と独身主義: レオナルドは生涯独身を通し、女性とのロマンチックな関係を持たなかったとされます。フロイトは、彼の「受動的な同性愛的性格」が、女性への関心を薄れさせ、男性への愛着を促したと解釈しました。彼の弟子たち(特にサライ)との関係も、この同性愛的な傾向の表れとされました。
- 芸術的創造性としての「昇華」(Sublimation):
- フロイトは、レオナルドの圧倒的な芸術的才能と科学的探求心は、彼が無意識に抱く性的な衝動(特に母親へのリビドーと、その抑圧)を、社会的に許容され、かつ価値ある活動へと「昇華」させた結果であると説明しました。
- 性的な好奇心は、科学的な探求心(解剖学、自然現象の観察)へと昇華され、母親への愛着は、美しい女性の肖像画(モナ・リザなど)を描くことへと昇華されました。
- 「モナ・リザの微笑み」の謎:
- フロイトは、モナ・リザの謎めいた微笑みが、レオナルドの母親の微笑み(彼が幼少期に経験した母親の過剰な愛情)を再現しようとする無意識の試みであると解釈しました。この微笑みには、母親の「男性的な」側面と「女性的な」側面が同時に表現されており、レオナルドが持つ両価的な母親像が投影されているとされました。
- モナ・リザの微笑みは、レオナルドの絵画「聖アンナと聖母子」に登場する聖アンナ(母の母)の微笑みとも共通しており、彼の作品に一貫して現れる母親像へのこだわりを示唆しています。
- 未完成のプロジェクト: 彼の多くのプロジェクトが未完成に終わったのは、彼が探求することそのものに快感を見出し、完成させることにはあまり関心がなかったためであると解釈されました。これは、彼の性的な欲求不満と、それに対する充足を求め続ける「探求」という活動への転換を示唆しているとされました。
4. 著作の意義と批判
意義:
- 精神分析的伝記研究の先駆: 精神分析の手法を歴史上の人物の心理分析に応用した最初の、そして最も影響力の大きい試みであり、サイコヒストリーという分野の基礎を築きました。
- 創造性の源泉の探求: 芸術的才能や科学的探究心といった人間の創造性が、無意識の性的衝動の昇華としてどのように生じるかを示す画期的な試みでした。
- 無意識の普遍性: 精神分析の理論が、神経症患者だけでなく、偉大な天才の心理にも適用可能であることを示し、その普遍性を主張しました。
- 深層心理学の発展: レオナルドの生涯を精神分析的に解釈することで、幼児期の経験が無意識レベルで成人の性格や行動に与える影響の深さを改めて示しました。
批判:
この著作は、その画期性にもかかわらず、発表当初から多くの批判と議論の対象となりました。
- 「鳶の夢」の誤訳: フロイトが分析の出発点とした「鳶の夢」の「nibbio」を「鳶」と訳したことが誤りであり、正しくは「ハゲタカ」であるという指摘がありました。フロイト自身も後にこの誤りを認めましたが、彼の分析の結論は大きく変わらないと主張しました。しかし、ハゲタカの母性的な象徴性がフロイトの解釈の根幹であったため、この誤訳は彼の分析の信頼性を揺るがすものとされました。
- 情報の不確実性: 歴史上の人物の伝
