フロイト『トーテムとタブー』第一章

フロイト『トーテムとタブー』第一章「近親相姦の恐怖」:文明の礎石と無意識の欲望

フロイトの『トーテムとタブー』は、四つの独立した論文から構成されており、それぞれが精神分析の光を人類文化の根源的な謎へと投射していく。その第一歩となるのが、第一章「近親相姦の恐怖(Die Inzestscheu)」である。この章でフロイトは、いわゆる「未開民族」の社会における最も不可解で、かつ最も厳格な掟の一つである「近親相姦の禁止」に焦点を当てる。そして、その奇妙な慣習の奥深くに、彼がウィーンの診察室で日々対峙していた神経症患者の無意識に渦巻く欲望と葛藤と、全く同じ構造を見出すのである。本稿では、この第一章の論理を詳細に追いながら、フロイトがいかにして個人の深層心理と人類の社会制度との間に橋を架けようとしたのか、その壮大な知的冒険の始まりを3000字の規模で解き明かす。

1. 問題の提示:トーテミズムと二つのタブー

フロイトはまず、読者を文化人類学の世界、特にジェームズ・フレイザーらの研究によって広く知られるようになったオーストラリア先住民などの「トーテミズム」という社会制度へと誘う。トーテミズムとは、ある特定の社会集団(氏族、クラン)が、特定の動物や植物、あるいは自然物と特別な関係にあると信じる信仰体系である。その集団の名はトーテムに由来し、彼らは自らをトーテムの子孫であると見なしたり、トーテムから保護を受けていると信じたりする。

このトーテミズムには、必ずと言ってよいほど二つの基本的なタブー(禁忌)が伴っている。フロイトは、この二つのタブーを分析の出発点に据える。

  1. トーテムのタブー: トーテムとなった動物を殺したり、その肉を食べたりしてはならない。これは氏族の祖先であり、守護者であるトーテムに対する敬意の表れである。
  2. 外婚制(族外婚)のタブー: 同じトーテム氏族に属する異性同士で性的関係を持つこと、すなわち結婚してはならない。

フロイトが本書の第一章で集中的に考察するのは、後者の「外婚制」のタブーである。これは実質的に、極めて広範囲に適用される「近親相姦の禁止」に他ならない。一見すると、近親相姦の禁止は現代社会においても普遍的な道徳律であり、取り立てて分析する価値がないように思えるかもしれない。しかしフロイトは、この「未開民族」における禁止のあり方が、我々の常識を遥かに超えた異様な厳格さと広がりを持っている点に、問題の核心を見出すのである。

2. 「近親相姦の恐怖」の不可解な過剰性

フロイトが民族誌学の資料から描き出す「未開民族」の近親相姦への態度は、「恐怖(Scheu)」と呼ぶにふさわしい、強烈で情動的なものである。その禁止は、現代人が考えるような生物学的な血縁関係の近さ(例えば、親子や兄弟姉妹)に限定されない。単に同じトーテムの名を持つというだけで、実際には何の血のつながりもない、遠く離れた場所に住む男女の間でさえ、性的関係は厳しく禁じられる。彼らは「氏族の兄弟」「氏族の姉妹」と見なされ、その関係は絶対的なものであった。

さらに、多くの部族では、近親婚を避けるために「結婚等級」といった極めて複雑な社会システムが発達していた。これは社会全体を複数のグループに分け、どのグループの男性がどのグループの女性と結婚できるかを厳格に規定するもので、その意図はただ一つ、近親相姦の可能性を徹底的に排除することにあった。

この不可解なまでに厳格で、過剰とも思える恐怖は一体どこから来るのか。フロイトは、当時一般的だった二つの説明を俎上に載せ、これを徹底的に論破することから自説の構築を始める。

第一は、「生物学的・遺伝的な弊害を避けるための本能的な知恵」という説明である。しかしフロイトは、彼らが近親交配の生物学的な危険性について、いかなる知識も持ち合わせていなかったであろうことを指摘し、この説明を退ける。彼らの恐怖は、合理的な損得勘定から来るものではなく、もっと根源的で説明のつかない、タブーとしての性格を帯びている。

第二は、社会学者エドワード・ヴェスターマルクらが唱えた「幼少期から親密に育った者同士の間には、自然と性的な関心が湧かない」という説である。つまり、近親者への性的嫌悪は本能的なものであるという主張だ。フロイトは、この説に対して痛烈な批判を加える。もし本当に人々が本能的に近親相姦を嫌悪しているのであれば、そもそもこれほどまでに厳格で複雑な社会的「禁止」は必要ないはずではないか。法律が「息を吸うこと」を禁止しないのと同じである。厳格な禁止が存在するという事実そのものが、むしろその禁止が破られる危険性、すなわち「禁じられた行為への誘惑」が存在することの動かぬ証拠である、とフロイトは喝破する。

3. 精神分析の光:「神経症者」との決定的類似

既存の説明がことごとく行き詰まったところで、フロイトは自らの専門領域である精神分析の知見を導入する。彼が提示するのは、序論で予告された通り、「未開民族」と「神経症者」との比較である。

フロイトによれば、神経症患者、特にヒステリー患者の症状を分析すると、その根底にはほぼ例外なく、幼児期における近親相姦的な願望(リビドー)が抑圧されていることが見出される。最も典型的なのは、男の子が母親に対して抱く性的な愛情と、その愛情の対象を独占するために父親を排除したいと願う「エディプス・コンプレックス」である。この願望は、社会的な規範や「去勢不安」によって厳しく抑圧され、無意識の領域へと追いやられる。しかし、抑圧された願望は消え去るわけではなく、形を変えて様々な神経症の症状となって現れる。

ここで重要なのは、神経症患者の心理構造である。彼らの意識は、近親相姦に対して強い嫌悪感や罪悪感を抱いている。しかし、その無意識の深層には、かつて抱いた近親相姦的な願望が依然として生き続けている。つまり、彼らの心の中では、近親相姦に対する強い「欲望」と、それに対する強力な「禁止(抑圧)」とが、絶えず葛藤を続けているのである。

フロイトは、この神経症者の心的構造を、そのまま「未開民族」の近親相姦の恐怖に重ね合わせる。「未開民族」が示す近親相姦への過剰な恐怖と厳格な社会的禁止は、まさに彼らの無意識の中に、近親相姦への強い「誘惑」や「願望」が存在していることの裏返しなのだ。彼らの社会制度は、この危険な願望が集団的に噴出しないようにするための、巨大な防衛機制として機能している。

このようにしてフロイトは、「未開民族」と神経症者の間に、決定的な一致点を見出す。それは、「近親相姦に対する両価的(アンビバレント)な態度」である。彼らは、意識の上ではそれを恐怖し、禁じているが、無意識の次元ではそれを強く欲望している。この愛と憎しみ、欲望と恐怖の葛藤こそが、両者に共通する心理の核心なのだ。

4. 「回避」の慣習と抑圧された欲望の証明

この論理をさらに補強するため、フロイトは近親相姦のタブーの中でも特に奇妙な現れ方をする「回避(Vermeidung)」の慣習を分析する。これは、特定の親族関係にある者同士が、互いに顔を合わせたり、口を利いたり、同じ場所にいることさえも徹底的に避けるという慣習である。特に広く見られるのが、婿と姑(妻の母)との間の回避である。

常識的に考えれば、この慣習は全く不可解である。しかし、精神分析のレンズを通して見ると、その意味は驚くほど明快になる。フロイトによれば、男性にとって姑は、妻の母親であり、妻と同じ血を引く女性である。しばしば彼女は、娘(妻)のかつての姿を彷彿とさせ、あるいは将来の姿を予感させる存在として、無意識的な性的関心の対象となる可能性を秘めている。つまり、姑は近親相姦的な誘惑の対象となりうる危険な存在なのである。

婿と姑との間の極端な「回避」のタブーは、この無意識的な性的誘惑から身を守るための、最も効果的な社会的防衛策に他ならない。ここでもまた、「禁止」の厳しさが、抑圧された「欲望」の激しさを証明しているという、フロイトの中心的なテーゼが鮮やかに示される。

結論:文明の起源への第一歩

第一章「近親相姦の恐怖」において、フロイトは一つの社会現象を、個人の深層心理を解読するのと同じ手法で見事に分析してみせた。彼が明らかにしたのは、人類最古の社会規範の一つである近親相姦の禁止が、単なる合理的な知恵や本能的な嫌悪から生まれたのではないということである。その根源には、神経症のそれと同じく、抗いがたい「欲望」と、それに対する「禁止」との間の激しい葛藤、すなわち「エディプス・コンプレックス」的な力動が存在した。

この章は、本書全体の壮大な探求における序曲の役割を果たしている。ここで確立された「未開民族と神経症者の心理的類似性」という分析視座と、「欲望と禁止の葛藤」という中心テーマは、続く第二章以降の議論の礎となる。フロイトは、人類が「人間」となり、社会を形成する上で踏み出した最初の文化的・道徳的一歩が、我々の最も根源的な無意識の欲望を抑圧するという、痛みを伴う自己規制の上に成り立っていたことを示唆している。こうして彼は、文明の起源そのものが、個人の心のドラマ、すなわちエディプス・コンプレックスの壮大な変奏曲であることを解き明かす、長い旅路の第一歩を力強く踏み出したのである。

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